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スマホ向け現代語訳

 

山月記

中島 敦

 

読む前に

中島敦『山月記』の全文を、現在の日本語で読みやす

く言い換えたものです。物語中の漢詩も現代語に訳し

ています。人名には初出で読みを添え、長い独白は短

い段落に分けました。章番号と見出しは、この版で補っ

たものです。

 

目次

1 詩人を志した李徴

2 草むらから聞こえる声

3 虎になった夜

4 残しておきたい詩

5 臆病な自尊心

6 夜明けの別れ

 

1 詩人を志した李徴

隴西(ろうさい)出身の李徴(りちょう)

は、学問に広く通じ、優れた才能を持っ

ていた。唐の天宝という時代の末ごろ、

若くして科挙という官吏登用試験の難関

に合格し、その後、江南の地方役人に任

命された。

だが、性格はかたくなで、人と折り合う

のが苦手だった。自分の才能への自信が

非常に強く、下級役人の地位に満足する

ことを、自分の誇りが許さなかった。

ほどなく役人を辞めると、故郷の虢略(

かくりゃく)へ帰り、人付き合いを断っ

て、ひたすら詩を作ることに打ち込んだ。

下級役人として、品性の低い高官にいつ

までも頭を下げているより、詩人として、

死後百年たっても残る名を立てようとし

たのである。

しかし、詩人としての評判はなかなか広

まらず、暮らしは日ごとに苦しくなった。

李徴は、しだいに焦りに駆られるように

なった。

このころから、顔つきも険しくなった。

やせて骨が目立ち、ただ目だけが、むや

みにぎらぎらと光っていた。試験に合格

したころの、頬のふっくらした美しい青

年の面影は、どこにもなかった。

数年後、貧しさに耐えられなくなり、妻

と子どもを養うため、ついに自分の信念

を曲げて、再び東へ向かった。そして、

地方役人として働くことになった。詩で

身を立てることに、半ば絶望したためで

もあった。

かつての仲間たちは、すでにはるかに高

い地位へ出世していた。昔は、才能のな

い者たちだと見下し、相手にもしなかっ

た連中の命令を、今は聞かなければなら

ない。

かつて秀才とうたわれた李徴の自尊心が、

どれほど傷ついたかは、想像に難くない。

彼はいつも不満を抱き、何をしても楽し

くなかった。激しく取り乱し、周囲に逆

らう性質は、ますます抑えられなくなっ

た。

一年後、仕事で旅に出て、汝水(じょす

い)という川のほとりに泊まったとき、

ついに正気を失った。

ある夜中、突然顔色を変えて寝床から起

き上がると、訳のわからないことを叫び

ながら、そのまま下へ飛び降り、闇の中

へ走り出した。

彼は二度と戻らなかった。近くの山や野

を捜しても、手がかりは何もなかった。

その後、李徴がどうなったかを知る者は、

誰もいなかった。

 

2 草むらから聞こえる声

翌年、役人を監察する職にあった、陳郡

(ちんぐん)出身の袁傪(えんさん)が、

皇帝の命令で南方の嶺南(れいなん)へ

向かった。その途中、商於(しょうお)

という土地に泊まった。

翌朝、まだ暗いうちに出発しようとする

と、宿駅の役人が言った。

「ここから先の道には、人食い虎が出ま

す。旅人は、日が高くなってからでなけ

れば通れません。今はまだ早いので、も

う少しお待ちになったほうがよいでしょ

う」

しかし袁傪は、大勢の供を連れているこ

とを頼みに、その忠告を退け、出発した。

明け方の空に残る月の光を頼りに、林の

中の草地を進んでいくと、案の定、一匹

の猛虎が草むらから飛び出した。

虎は、今にも袁傪へ飛びかかるかと思わ

れた。ところが、突然身をひるがえし、

元の草むらに隠れてしまった。

草むらの中から、人間の声が聞こえた。

「危ないところだった。危ないところだっ

た」

繰り返しつぶやくその声に、袁傪は聞き

覚えがあった。驚きと恐怖の中でも、とっ

さに思い当たり、叫んだ。

「その声は、わが友、李徴ではないか」

袁傪は李徴と同じ年に科挙の試験に合格

した、友人の少ない李徴にとって最も親

しい友だった。穏やかな袁傪の性格が、

厳しくとげとげしい李徴の性格と、ぶつ

からずに済んだためだろう。

草むらからは、しばらく返事がなかった。

ときどき、忍び泣くような、かすかな声

が漏れるだけだった。

やがて、低い声が答えた。

「そのとおり。私は隴西の李徴だ」

袁傪は恐怖を忘れ、馬から降りて草むら

に近づき、懐かしそうに、久しぶりの再

会を喜ぶ言葉をかけた。そして、なぜ草

むらから出てこないのかと尋ねた。

李徴の声が答えた。

「私は今、もう人間ではない。こんなみ

じめな姿を、どうして恥ずかしげもなく、

昔の友に見せられるだろう。それに、姿

を見せれば、君はきっと恐ろしくなり、

嫌な気持ちになるに違いない。

だが、今こうして思いがけず君に会えた

ことが、恥ずかしささえ忘れるほど懐か

しい。どうか、ほんの少しでいい。今の

醜い姿を嫌わずに、かつて君の友、李徴

だった私と、話をしてくれないだろうか」

あとから考えれば不思議なことだった。

だが、そのとき袁傪は、この世の常識で

は説明できない出来事を、ごく自然に受

け入れ、少しも疑わなかった。

部下に命じて一行を止め、自分は草むら

のそばに立って、姿の見えない声と話を

した。

都のうわさ、昔の友人たちの近況、袁傪

の今の地位、それを祝う李徴の言葉。若

いころに親しかった者同士の、あの気兼

ねのない口調で、二人は話した。

そのあと袁傪は、なぜ今のような身になっ

たのかと尋ねた。草むらの中の声は、こ

う語った。

 

3 虎になった夜

「一年ほど前、旅の途中で汝水のほとり

に泊まった夜のことだ。

ひと眠りして、ふと目を覚ますと、戸の

外で誰かが私の名を呼んでいた。声に応

じて外へ出ると、闇の中から、しきりに

私を呼び寄せる。私は、思わずその声を

追って走り出した。

夢中で走っているうちに、いつの間にか

道は山の林へ入っていた。しかも、気づ

かないうちに、私は両手で地面をつかむ

ようにして走っていたのだ。

体じゅうに力が満ちたようで、岩も石も

軽々と飛び越えた。ふと見ると、手の先

や、ひじのあたりに、毛が生えているら

しい。

少し明るくなってから、谷川に姿を映し

てみた。私は、すでに虎になっていた。

初めは自分の目を信じなかった。次に、

これは夢に違いないと思った。夢を見て

いる最中に、これは夢だとわかっている。

そんな夢を、以前にも見たことがあった

からだ。

だが、どうしても夢ではないと認めざる

を得なくなったとき、私はぼうぜんとし

た。そして、恐ろしくなった。この世で

は、本当にどんなことでも起こり得るの

だと思い、心の底から恐ろしくなった。

それにしても、なぜこんなことになった

のだろう。わからない。私たちには、何

一つわからないのだ。

理由もわからず押しつけられたものを、

おとなしく受け取り、理由もわからず生

きていく。それが、私たち生き物の定め

なのだ。

私は、すぐ死のうと思った。

だが、そのとき、一匹のウサギが目の前

を走り過ぎた。それを見たとたん、私の

中の人間は、たちまち消えてしまった。

再び人間の意識が戻ったとき、私の口は

ウサギの血で染まり、あたりにはウサギ

の毛が散らばっていた。

これが、虎としての最初の経験だった。

それ以来、今まで何をしてきたか。それ

は、とても話すに耐えられない。

ただ、一日のうち、必ず数時間は、人間

の心が戻ってくる。

そんなときには、以前と同じように人間

の言葉を話せるし、複雑なことも考えら

れる。儒教の経典の文章を、暗唱するこ

ともできる。

その人間の心で、虎として自分が行った

残酷な行為の跡を見て、自分の運命を振

り返る。その時間が、何よりも情けなく、

恐ろしく、腹立たしい。

しかし、人間に戻れるその数時間も、日

がたつにつれて、しだいに短くなってい

る。

今までは、どうして自分は虎になったの

か、と不思議に思っていた。それなのに、

このあいだ、ふと気づくと、私は、どう

して以前は人間だったのだろう、と考え

ていたのだ。

これは恐ろしいことだ。

もう少したてば、私の中の人間の心は、

獣として暮らす習慣の中に、すっかり埋

もれて消えてしまうだろう。古い宮殿の

土台が、少しずつ土砂に埋まっていくよ

うに。

そうなれば、私は自分の過去をすべて忘

れ、一匹の虎として暴れ回るだろう。今

日のように道で君に会っても、昔の友だ

とはわからず、君を引き裂いて食べ、何

の後悔も感じないだろう。

いったい、獣も人間も、もとは何か別の

ものだったのではないか。初めはそれを

覚えていても、だんだん忘れてしまう。

そして、初めから今の姿だったと思い込

んでいるのではないか。

いや、そんなことは、どうでもいい。

私の中の人間の心がすっかり消えてしま

えば、たぶん、そのほうが幸せになれる

のだろう。それなのに、私の中の人間は、

そのことを、このうえなく恐ろしく感じ

ている。

ああ、自分が人間だった記憶がなくなる

ことを、私はどれほど恐ろしく、悲しく、

切なく思っていることか。

この気持ちは誰にもわからない。誰にも

わからない。私と同じ身の上になった者

でなければ。

ところで、そうだ。私がすっかり人間で

なくなる前に、一つ頼んでおきたいこと

がある」

 

4 残しておきたい詩

袁傪をはじめ、一行は息をのみ、草むら

の声が語る不思議な話に聞き入っていた。

声は続けた。

「ほかでもない。私は、もともと詩人と

して名を立てるつもりだった。それが、

まだ成し遂げないうちに、こんな運命に

なってしまった。

以前作った詩は数百篇あるが、もちろん、

まだ世には出ていない。残してきた原稿

がどこにあるかも、もうわからなくなっ

ているだろう。

だが、その中には、今でも覚えていて、

そらで言えるものが数十篇ある。それを、

私のために書き留めて、後の世へ伝えて

ほしいのだ。

それによって、一人前の詩人の顔をした

いわけではない。詩がうまいか下手かは、

ともかくとして、財産を失い、心を狂わ

せるほど、生涯をかけて執着したものな

のだ。

その一部でも後の世へ伝えずには、死ん

でも死に切れない」

袁傪は部下に命じ、筆を取らせて、草む

らの声に従って書き留めさせた。

李徴の声は、草むらの中から朗々と響い

た。長い詩、短い詩を合わせて、およそ

三十篇。どれも気品があり、着想も優れ

ていて、一度読めば、作者の並外れた才

能が感じられるものばかりだった。

しかし袁傪は、感心しながらも、ぼんや

りと、こんなことを感じていた。

なるほど、作者が一流の素質を持ってい

ることに、疑いはない。だが、このまま

で一流の作品と呼ぶには、どこか、きわ

めて微妙なところで、足りないものがあ

るのではないか。

昔の詩を語り終えた李徴の声は、突然調

子を変え、自分をあざ笑うように言った。

「恥ずかしいことだが、今でも、こんな

みじめな姿になり果てた今でも、私は、

自分の詩集が、都の長安(ちょうあん)

で、詩や芸術を愛する人々の机の上に置

かれている夢を見ることがある。

洞穴に横たわって見る夢の中で、だよ。

笑ってくれ。詩人になり損ねて、虎になっ

た哀れな男を」

袁傪は、若いころの李徴にあった、自分

をあざける癖を思い出しながら、悲しく

聞いていた。

「そうだ。笑い話のついでに、今の気持

ちを、その場で詩にしてみようか。この

虎の中に、まだ昔の李徴が生きている、

その証しとして」

袁傪は、もう一度部下に命じて、これを

書き留めさせた。詩は、次のような内容

だった。

思いがけず心を病み、私は人ならぬ姿に

なった。

災いは次々に重なり、逃れることもでき

ない。

今、この爪と牙に、あえて立ち向かう者

がいるだろうか。

あのころは、君も私も、ともに高く名を

知られ、歩みを重ねていた。

私は異形のものとなり、草むらの下に伏

している。

君はすでに高官の車に乗り、その姿には

威勢がみなぎっている。

今宵、この谷と山で、明るい月に向き合っ

ても、

もはや声を長く響かせて詩を吟じること

はできず、ただ、ほえる声になるばかり

だ。

そのとき、空に残る月の光は冷たく、地

面には白い露が一面に降りていた。木々

の間を吹き抜ける冷たい風は、すでに夜

明けが近いことを知らせていた。

人々は、もうこの出来事の不思議さも忘

れ、静かに心を引き締めて、この詩人の

不幸を嘆いた。

李徴の声は、再び続いた。

 

5 臆病な自尊心

「さっきは、なぜこんな運命になったの

かわからない、と言った。だが、考えよ

うによっては、思い当たることが、まっ

たくないわけでもない。

人間だったころ、私は、できるだけ人と

の付き合いを避けていた。人々は、私を、

思い上がっている、偉そうだ、と言った。

だが実際には、それが、ほとんど恥ずか

しさに近い気持ちだったことを、誰も知

らなかった。

もちろん、地元で、並外れた才能の持ち

主と言われた私に、自尊心がなかったと

は言わない。しかし、それは『臆病な自

尊心』とでも呼ぶべきものだった。

私は、詩で名を立てたいと思いながら、

自分から師を探して教わることもしなかっ

た。詩を作る仲間と進んで付き合い、互

いに励まし、腕を磨こうともしなかった。

かといって、世間のありふれた人々と肩

を並べて生きることも、私の誇りが許さ

なかった。

どちらも、自分の価値を傷つけられるの

が怖いという『臆病な自尊心』と、自分

は特別だから恥などかきたくないという

『尊大な羞恥心』のせいだった。

自分が本当は宝石ではないとわかるのが

怖いから、苦労して磨いてみようとはし

ない。その一方で、自分は宝石であるは

ずだと半ば信じているから、何もせず、

ただの瓦と一緒に並んでいることもでき

なかった。

私は、しだいに世間から離れ、人から遠

ざかった。そして、怒りや悩み、恥ずか

しさや腹立たしさを抱えるうちに、自分

の中の臆病な自尊心を、ますます太らせ

てしまったのだ。

人間は誰もが猛獣使いであり、その猛獣

にあたるのが、一人ひとりの性質や気性

なのだという。

私の場合は、この、思い上がった恥の意

識こそが猛獣だった。虎だったのだ。

それが私を損ない、妻子を苦しめ、友人

を傷つけた。しまいには、私の外見まで、

この心にふさわしい姿へ変えてしまった

のだ。

今思えば、私は、自分の持っていた、わ

ずかな才能を、すっかり無駄にしてしまっ

た。

『人生は、何もせずに過ごすには長すぎ

るが、何かを成し遂げるには短すぎる』

などと、口先では気の利いた言葉を並べ

ていた。

だが本当の私は、才能のなさが知れてし

まうのではないかと、卑怯にもおびえ、

苦労するのが嫌で怠けていただけだった。

それが、私のすべてだったのだ。

私よりはるかに才能が乏しくても、ひた

すらそれを磨いたために、立派な詩人に

なった者は、いくらでもいる。

虎になり果てた今になって、私はようや

く、それに気づいた。そのことを思うと、

今でも胸が焼けるように悔しい。

私には、もう人間として暮らすことはで

きない。たとえ今、頭の中でどれほど優

れた詩を作れたとしても、どうやって世

に出せるというのだ。

まして、私の頭は、日に日に虎の頭へ近

づいている。

どうすればいいのだ。無駄にしてしまっ

た、私の過去は。

私は、たまらなくなる。

そんなとき、私は向こうの山の頂にある

岩へ登り、誰もいない谷に向かってほえ

る。この胸を焼く悲しみを、誰かに訴え

たいのだ。

昨日の夕方も、あそこで月に向かってほ

えた。誰かに、この苦しみをわかっても

らえないかと思って。

だが、獣たちは私の声を聞いても、ただ

怖がり、ひれ伏すばかりだ。山も、木も、

月も、露も、一匹の虎が怒り狂い、たけ

りほえているとしか思わない。

空へ跳び上がり、地面に伏して嘆いても、

私の気持ちをわかってくれる者は、一人

もいない。

人間だったころ、私の傷つきやすい心を、

誰も理解してくれなかったように。

私の毛皮がぬれているのは、夜露のため

だけではない」

 

6 夜明けの別れ

ようやく、あたりの暗さが薄らいできた。

木々の間を伝って、どこからか、夜明け

を知らせる角笛の音が、悲しげに響きは

じめた。

もう別れを告げなければならない、と李

徴の声が言った。酔わなければならない

ときが、つまり、虎に戻らなければなら

ないときが、近づいてきたのだ、と。

「だが、別れる前に、もう一つ頼みがあ

る。妻と子どものことだ。

あの者たちは、まだ虢略にいる。もちろ

ん、私に何が起きたか、知るはずもない。

君が南から戻ったら、私はもう死んだと、

伝えてくれないだろうか。今日のことだ

けは、決して明かさないでほしい。

厚かましいお願いだが、頼る者のない、

か弱い妻子を哀れに思ってくれるなら、

これから先、道端で飢えや寒さに苦しむ

ことのないよう、世話をしてもらいたい。

そうしてくれれば、私にとって、それ以

上ありがたいことはない」

言い終わると、草むらの中から、声を上

げて激しく泣くのが聞こえた。

袁傪も涙を浮かべ、喜んでその願いに応

えたい、と答えた。

ところが李徴の声は、すぐにまた、先ほ

どの、自分をあざける調子に戻った。

「本当は、まずこちらを先に頼むべきだっ

たのだ。私が人間だったなら。

飢え、凍えかけている妻子よりも、自分

のわずかな詩の成果を気にかける。そん

な男だから、こんな獣に落ちてしまうの

だ」

そして、こう付け加えた。

「嶺南から帰るときは、決してこの道を

通らないでほしい。そのときの私は、酔っ

たように人間の心を失い、君が昔の友だ

ともわからず、襲いかかるかもしれない

から。

それから、今ここで別れて、百歩ほど先

のあの丘へ登ったら、こちらを振り返っ

てほしい。今の私の姿を、もう一度見せ

よう。

強さを誇りたいのではない。自分の醜い

姿を見せて、もう一度ここを通り、私に

会おうなどという気を、君に起こさせな

いためだ」

袁傪は草むらに向かい、心を込めて別れ

の言葉を述べ、馬に乗った。

草むらの中からは、また、こらえ切れな

いような悲しい泣き声が漏れた。袁傪も、

何度も草むらを振り返りながら、涙のう

ちに出発した。

一行が丘の上へ着くと、言われたとおり

に振り返り、先ほどの林の中の草地を眺

めた。

すると、一匹の虎が、草の茂みから道へ

飛び出すのが見えた。

虎は、すでに白く、輝きを失った月を仰

いで、二声、三声、ほえた。

そして、再び元の草むらへ飛び込むと、

それきり姿を見せなかった。

 

出典と編集について

原作:中島敦『山月記』

出典:青空文庫

底本:『李陵・山月記』新潮文庫、新潮社(1969年9

月20日発行)

青空文庫の入力:平松大樹

校正:林めぐみ