今年5月に発刊された小説「われは熊楠」(岩井圭也:著、文藝春秋社)を読みました。

 



田辺の三偉人(植芝盛平、南方熊楠、武蔵坊弁慶)の1人である熊楠のことは、これまでのいろいろな文献や書籍などを通じてかなり知っているつもりでしたが、この本を読むと、父親(弥右衛門)の熊楠への期待と失望、弟の常楠からの多大な金銭的支援と絶縁、そして長男の熊弥への期待と確執・絶望などが詳しく描かれていて、あらためて人間「熊楠」の苦悩を感じずにはいられませんでした。

私は、2017年に東京で上演された劇団民藝による「熊楠の家」(1995年初演、2017年に新演出で上演、その後、2021年に近畿各地で巡回公演)を鑑賞して、その際にも、長男・熊弥との葛藤の場面を中心に深く考えさせられたのですが、今回の小説でもやはりその点が一番、強く心に残りました。

熊楠は、1867年に和歌山市で生まれ、1883年から上京して東大予備門に通うも志半ばで中退。その後、1886年に渡米し、さらに1892年に渡英して大英博物館で勤務するも現地でトラブルを起こし、1900年に帰国。その後、那智の森林での植物(きのこ類など)採集生活などを経て、1904年から田辺に居住。粘菌などの採取、新種の発見などの研究生活を過ごしつつ、1907年からの神社合祀反対運動などを通じて全国的にも有名になり、1929年に昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上でご進講という栄誉を賜ることになります。このあたりのことは、この小説にももちろん描かれているのですが、一方で、1906年に田辺の闘鶏神社宮司の娘(松枝)と結婚、その翌年に誕生した長男熊弥への(熊楠の)強すぎる期待とその後の2人の確執など、熊楠一家の苦悩のことも詳しく描かれています。

私は、1990年代に、当時の南方熊楠邸を何度か訪問し、熊楠の長女・文枝さん(1911~2000)から直接、熊楠翁のいろいろなエピソードをお聞きしたりしましたが、当時の文枝さんの穏やかな語り口からは、熊楠にそのような(熊弥との)確執と苦悩があったことをうかがい知ることはできませんでした。

昨年、田辺市で、三重県出身で和歌山県(海南市)に永住した画家の「青木梅岳」展が開催され、その際、青木梅岳が、海南の藤白神社近くで(精神病の)養生をしていた「南方熊弥」の住まいの近くに住んでいて、何かと熊弥に心遣いをしたということを知って、驚いた次第です。

 



藤白神社と言えば、熊楠も子供のころによく遊んだというゆかりの神社ですので、結局は、熊楠と熊弥もそのようにして結ばれていたのかも知れません。今、この2人は積年の確執も解け、あちらの世で、熊楠が解明しようとした森羅万象の本質を語り合っていると信じたいです。