独りは気楽に生きること | 遊楽(元そば屋)

遊楽(元そば屋)

元手打ちそば屋です。今は…。古本屋のような事をしています。

今朝郵便局まで歩きながら考えていたことがふたつあった

 

孤独、孤高、独り、ひとり

 

貧乏に生きる

 

このふたつを合わせて書こうと思っていたが

 

ついつい貧乏だけを書いてしまった

 

しかもかなり予定と違ってた

 

それはそれでいいんだけどやはり独りについて書いておきたい

 

孤独というのはなんか寂しい響きがある

 

これは間違いなんだと思うようになっている

 

孤独は寂しくもなんともない

 

独りが長いからとかも関係ない

 

孤独が苦手な人はきっと誰かに寄りかかった生き方をしてるから

 

一人暮らしを始めるとホームシックになるのと同じだろう

 

誰かによりかからないと生きられない状態になっているだけ

 

思い込みなんだ

 

生き方とかを書物で勉強するからいけないのよ

 

自由に生きることができなくなる

 

自由に生きるとは自分で考えることなんだ

 

人の意見を実行することではないのよ

 

著名人の名言とかもアホみたいなもん

 

名言ってそれもともとあった言葉やし

 

歴史上の人物が言った言葉はすごいとかないし

 

騙されている

 

以前は随分と本を読んだ

 

歴史なんか司馬遼太郎に学んだと思いこんでいた

 

それって全部とは言わないが司馬遼太郎の創作

 

気づくのが遅かったかも

 

自己啓発とかも自己暗示みたいになって成長したと勘違い

 

よく考えてみよう

 

日本の教育は記憶することなんよね

 

試験の時に記憶を思い出せる人が成績いいわけ

 

おかしいのよ

 

その記憶した物自体が嘘なことが多いの

 

学校で学ぶことは学ばなくても問題ないわけ

 

独りと離れてしまった

 

孤独死というのは寂しい死に方とか思うのは生きている側

 

死んだ人はいつ死んだかもわからないと思う

 

ドラマのように見事な死に方をしようがそれまで

 

眠る時に今眠ったとかわからないでしょう

 

目が覚めて眠ったことがわかるわけ

 

ということは死ぬとは眠って目が覚めないことなんだよ

 

生きている延長が死なんだろう

 

いつ死ぬかわからんし

 

親の死に目にあえないとかあったとかも関係ない

 

親が死ぬとは親が現実にいなくなるだけ

 

自分が死ぬとは眠りが覚めないこと

 

孤独だろうが関係ない

 

これに気づいてから死ぬのが怖くなくなった

 

そして孤独がまったく寂しくなくなった

 

死生観が変わった

 

たぶん日本人の昔の死生観に戻った

 

姥捨山というのは昔にあった話だけど理にかなっている

 

自然な生き方をしていると自分が死ぬというのがわかるはず

 

もうすぐだなあと思ったら自分で山に行く

 

それだけだろう

 

じっとして1週間もすれば死ぬそうだ

 

そうならないといけないだろうな

 

独りというのは本当に楽しい

 

さっき携帯の履歴を見たら今月は誰とも電話していない

 

先月は3回

 

友人はいないし気楽だ

 

隣は5人家族なんだが数日前から人が動かない

 

4台の車は停まったまま

 

尋ねてはいないがPCR検査陽性なんだろうなと思われる

 

気の毒な犠牲者になってしまったのかも