当時の宮村国民学校の教師と
小学生たちが掘った巨大な防空壕。
生徒500人が避難できたというほどの大きさ!
避難中でも授業や生活ができるように、
教壇まで備えた教室をはじめ、
トイレや炊事場、食料倉庫、
天皇の写真を奉ずる
御真影部屋まで設けてあるんですよ。
当時4年生以上の児童がツルハシで堀り進み、
女子生徒がノミで仕上げたといわれています。
工事は昭和18年8月~
終戦の昭和20年8月15日まで
続けられたそうです。
天井は小学生の手によるものとは思えないほど、
美しいアーチで、
飾り棚等もデザインもされているんです。
少し前までは
こちらの学校に通われていたと方も
ボランティアで説明されていたようですが
今は高齢になりボランティアも
難しくなってきたと
今回説明してくださった方が
仰っていました。
全て垂直に削られていますし
飾り棚等も左右対称に削られています。
そして、男性は戦争に行ってしまうので
掘ったのは、ほとんどが
女性だったそうです。
数年で、この広さ掘り進んだことにも
驚きですよね。
今は電球で明るいですが
当時はロウソクだけで過ごしたと思うので
真っ暗な中、勉強もしていたんですよね。
針尾送信所の時も思いましたが
今は便利になり、
当たり前に生活している私達。
手作業でコンクリートを突くとか
手作業で掘り進むとか
考えられませんし
何より途中で諦めてしまいそう………
当時の方の忍耐力や根気というのは
凄いなぁ。と、無窮洞の中で感じました。
説明してくださる方
皆さん必ず仰っていたのが
ウクライナとロシアのこと。
そして、その日は北朝鮮から
ミサイル発射でJアラートが鳴った日。
【絶対、戦争はダメ!】と、
いう事を強く仰っていて
戦争の被害を間近で見てきている
皆さんの言葉の重みは違いますね。
大人になると、自分の子供と重ねたり
親と重ねて考えます。
私も含め、きっと今の子供たちは
こんな忍耐力はないでしょう。
そして、80代以降のおじいちゃんや
おばあちゃんは近くにご存命ですか?
お小遣いくれたり、お菓子くれたり
優しく接してくれているでしょう?
時には厳しさもありますよね?
爆撃の被害がないところに住んでいても
生活は今とは比べ物にならない生活でした。
そんな経験をしているからこそ
強く優しいんです。
皆さんたちが今できない事を
やってきた人達なんです。
おじいちゃん、おばあちゃんには
敬意を払って、
そして優しく接してくださいね!