言葉と実物とがあまりに狎(な)れ合ってしまった今、俳句を(詩を)つくろうとする人間の内部で、このことを腹の底から、知識としてではなく感覚として納得さすことは、まことにむつかしい。それでこの問題を絵画に置き替えてみると、いくらか解りやすいのではないかと思う。たとえばここに一個の赤いリンゴがある。画布の上に絵の具でこれを写生する。どれだけ写実的な描法で描いても、実物のリンゴは摑むことの出来るナマの立体であり、画布に描かれたリンゴは絵具で塗られた平面である。この二つが異なる次元に在るものだということに文句をつける人はいないだろう。俳句(詩)の場合、画布と絵具が言葉に相当する。忠実に写実主義の方法で描かれていても、描かれたリンゴは実物のリンゴとは全く別の世界を存在させていなければ、絵画というものの意義がない。描かれたリンゴが、実物のリンゴによく似ているように見えるだけなら、その絵は実物の説明にすぎず、絵としての存在価値はない。言葉の場合も事情は全く同じである。

 言葉を使って、説明に終わらない写実をするにはまず、詩における言葉と実物とが簡単に地続きであるという錯覚を改めることである。散文の言葉と実物との間はおおむね地続きであるが、詩の言葉と実物との間には、解明不可能の深い闇の溝が横たわっているという畏れを、もう一度鮮らしく持ち直さなければならない。写実のおいて、実部をよく見て、次にそれが言葉になる段階で、この畏れがあるのとないのとでは決定的に違う。散文においては、実物から言葉へと、安全に利に添って一歩ずつ歩いて渡れるが、実物と詩の言葉との間は、不条理の深い闇の溝を思い切ってとび越えるしかない。しばしばとびそこなうのは致し方ない危ない仕事である。もし、実物から言葉への過程が、明るく確かに一歩一歩たどれているとしたら、それは詩の形をしていようと俳句の形をしていようと、散文なのである。俳句の一行の言葉が、実物とは別の世界を展いてはいないはずである。

 このように、実物と言葉との間が地続きに歩かれている俳句、つまり結局は説明であり、散文の機能しか果たしていない俳句が実に多い。写実といえばわれわれは、桐の花なら桐の花を見てああ美しい紫とか、唇のような花形とか、優雅とか素朴とか、桐の花について何やかやあらゆる思いつくかぎりのことを、まず頭の中で思ってしまう。次にこの頭の中で思ったことを言葉にしようとする。この工程の二段階であることが、恐らく不都合の因と思われる。実物の桐の花と、言葉の桐の花の間には、何も在ってはならないのである。実物の桐の花と、言葉の桐の花との間に割り込んで来ようとするものを、必死に退けることが、 “見る” ということかもしれない。言葉の桐の花は、何にも拠らず直截に出現しなければ、詩の言葉、俳句の言葉にはならない。

 詩の言葉が出現するこの事情は、写実であろうと何であろうと方法の如何にかかわらず全く同じである。直截に言葉を獲得すること、これは思いの外困難なことなのである。

(昭56・6「波」)