こぞことし つらぬ ぼう  ごと
去年今年貫く棒の如きもの   高浜虚子

きっとこの句が「去年今年」の季語の句の中で一番有名だろう。
歳時記(角川書店編)によれば「一夜明ければ昨日は去年であり、今日は今年である。たちまちのうちに年去り年来るという、時の歩みの速さに深い感慨を覚えることば」とある。

NHKの「行く年来る年」は除夜の鐘を聞かせる大晦日の最後の放送という位置づけだが、この「去年今年」は新年の季語となっている。

大日本歳時記の中で山本健吉は興味深いエピソードを書いている。
「この古典的季題は、終戦後間もなく、虚子の一句によって命が吹き込まれた。『去年今年貫く棒の如きもの』。鎌倉駅の構内に、たまたまこの句が掲げられていたのが、たまたま川端康成の眼に触れ、感嘆して随筆を書いてから、一躍有名になった」そうだ。
詩人、大岡信の言葉を借りれば「(この句で)虚子はおのれの心の、ある特定の一瞬に凝縮した結晶相を示そうともしていなければ、時間、空間の静まり深まった一点を示そうともしていない。むしろ逆に、年のあらたまる瞬間といえども、自分にとってはいつもと変わりはしないのだ、存在するものはただ過現未を『貫く棒の如きもの』だけである、と言っているのである。…虚子という人は生涯を通じて、『貫く』という行為や状態に深く執着した人であると思う。…彼は、季語『去年今年』の短い瞬間の中に、おそろしく長い時間の中身を見出したのである」。

「去年今年」…人は眼に見えない断層を感じるが、無窮の時の流れ、大自然の万物の流転と比べれば、世相の転変も煙霞のようなものと虚子は言うのである。

さまざまな発明やITの進歩のおかげで、世界は一段と狭くなり、時間は目まぐるしく速くなった。

日々の仕事や事象に追われてしまうと、短い人生をさらに小刻みに生きなければならない。そして、慌しく時間を駆け抜ける生活は、ときに正しいことと悪いことの判断を鈍らせたり、無関心になったりさせるように思う。
大きな時の流れの中での普遍なもの、守るべきもの…貫き通さねばならないものを見失わないようにしたいと思う。



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