正岡子規の句に
漱石が来て虚子が来て大三十日
という句がある。この句の作は明治28年で、漱石は松山で教鞭をとっていた年である。そもそも子規と漱石の出会いは互いに大学の同窓生になったことから始まる。彼らは明治22年に初めて会っている。子規が手がけた漢詩や俳句の文集「七草集」が学友の間で回覧されたところ、漱石が巻末に漢文で感想を書いたというのが、その交友の始まりだそうだ。そして、その後互いに落語好きという接点で親交を深めたらしい。
子規はその後、新聞『日本』の記者として日清戦争に従軍。帰国の船中で大量に喀血し入院し、その後、故郷の松山に帰ることとなる。
帰ってみると、友、漱石が松山中学で教鞭をとっていると聞きその下宿を訪ね、そこに50日ほど居座った。子規は病気療養で帰ったため、やることもなく俳句仲間を集めては毎日のように句会をしたそうだ。子規を訪れる友人や句会の騒々しさに負けてとうとう漱石も俳句を始めるようになったとか…。
この句会の席で虚子は漱石と出会うのである。これが明治28年8月~10月のこと。
この年の暮れには子規は東京に戻っているから、東京の子規庵(子規の住いの呼称)に漱石(松山の赴任を終えて帰京)と虚子(第二高等学校―現東北大学を中退して上京)が訪れたのだろう。
明治30年に俳誌「ほとヽぎす」が松山で創刊されると、翌31年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し、俳句だけでなく和歌、散文を加えた俳句文芸誌として再出発する。ここに漱石も寄稿することになるのである。
こういうわけで、漱石の処女作『吾輩は猫である』も最初『ホトトギス』に掲載された。ちなみに『吾輩は…』の題名、漱石は最初『猫伝』とでもしようかと思っていたところ、虚子が書き出しの一句をとって『吾輩は猫である』とさせたそうである。
漱石はこの頃、神経衰弱気味だったというから…そんな漱石の内で「爆発寸前にまで高まった創作衝動」に「みごとな放出回路を用意した」虚子の役割は偉大だった。
う~ん、持つべきものは良き友だねぇ~。
参考・引用は大岡信著「子規・虚子」より
漱石が来て虚子が来て大三十日
という句がある。この句の作は明治28年で、漱石は松山で教鞭をとっていた年である。そもそも子規と漱石の出会いは互いに大学の同窓生になったことから始まる。彼らは明治22年に初めて会っている。子規が手がけた漢詩や俳句の文集「七草集」が学友の間で回覧されたところ、漱石が巻末に漢文で感想を書いたというのが、その交友の始まりだそうだ。そして、その後互いに落語好きという接点で親交を深めたらしい。
子規はその後、新聞『日本』の記者として日清戦争に従軍。帰国の船中で大量に喀血し入院し、その後、故郷の松山に帰ることとなる。
帰ってみると、友、漱石が松山中学で教鞭をとっていると聞きその下宿を訪ね、そこに50日ほど居座った。子規は病気療養で帰ったため、やることもなく俳句仲間を集めては毎日のように句会をしたそうだ。子規を訪れる友人や句会の騒々しさに負けてとうとう漱石も俳句を始めるようになったとか…。
この句会の席で虚子は漱石と出会うのである。これが明治28年8月~10月のこと。
この年の暮れには子規は東京に戻っているから、東京の子規庵(子規の住いの呼称)に漱石(松山の赴任を終えて帰京)と虚子(第二高等学校―現東北大学を中退して上京)が訪れたのだろう。
明治30年に俳誌「ほとヽぎす」が松山で創刊されると、翌31年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し、俳句だけでなく和歌、散文を加えた俳句文芸誌として再出発する。ここに漱石も寄稿することになるのである。
こういうわけで、漱石の処女作『吾輩は猫である』も最初『ホトトギス』に掲載された。ちなみに『吾輩は…』の題名、漱石は最初『猫伝』とでもしようかと思っていたところ、虚子が書き出しの一句をとって『吾輩は猫である』とさせたそうである。

漱石はこの頃、神経衰弱気味だったというから…そんな漱石の内で「爆発寸前にまで高まった創作衝動」に「みごとな放出回路を用意した」虚子の役割は偉大だった。
う~ん、持つべきものは良き友だねぇ~。

参考・引用は大岡信著「子規・虚子」より