俳句とは座の文学であるゆえ、そこには師系というものが存在する。
つまりは、俳句を教えてくれる師がいて、その座に集い、そこで学び自分なりの個性をその中で発揮していくわけである。
社団法人 俳人協会発行の「俳句文学館(月刊新聞)」10月5日の記事で師系について鈴木鷹夫氏の講演内容が載っていた。その中で鈴木氏は次のように述べている。
「真の師とは、その作品に心酔して、さらに人間としても尊敬し、その生き方にも共鳴して影響を受ける人物を指す」。
納得のいくお言葉であるが、人間として尊敬する…生き方に共鳴する…そんな人物には昨今なかなか出会えないものである。
現在の俳句の裾野の広がりと師弟関係について氏はこう述べる。
「現在はカルチャーセンターなどの講座から出た人が多い。これは単なる先生と生徒の関係になっているので、師と一対一で真剣に俳句と向き合う人が少なくなってきた。つまり俳句が単なるお稽古になってしまっている時代である」。
まさにその通り!と頷いてしまう。
そんな現代の流れの中で、師系とは?と問うたとき「伝統俳句の道を歩む者が師系を巡れば正岡子規へ皆行き着く」と鈴木氏は言う。
鈴木氏の場合、「子規―虚子―秋櫻子―波郷―登四郎―鷹夫」となるそうだ。
このように、俳句とは師と師の作品・精神を継ぎつつ自らの作風を自得するというのが大切であると鈴木氏は説かれていた。
「自分の師は、師系のどの辺にいるのか、ということも考えると、その延長線の今の自分の俳句を客観的に見つめることもできる」。
…そこで自分は何を描くのか?どう描くのか?ということになるのだが…
私の場合、まだまだ模索中というところだ。
ちなみに私の師系はというと、
正岡子規(写生・写実【ホトトギス】)
―高浜虚子(花鳥諷詠・客観写生【ホトトギス】)
―水原秋櫻子(自然の真と文芸上の真…主観に裏打ちされた写生【馬酔木】)
―藤田湘子(二物衝撃…季語と写生題材との衝撃【鷹】)
―悠人
となっている。
私はまだまだ師の俳句論を体得するまでに至っていないので、俳句の外周を巡っている程度なのだが、いずれは自分の俳句というものに到達できればと思っている。
五・七・五の十七文字という限られた枠の中で自分なりのスケッチが描けるところまで頑張ってみよう。
まずは、あせらずじっくり行こうと思う。
つまりは、俳句を教えてくれる師がいて、その座に集い、そこで学び自分なりの個性をその中で発揮していくわけである。
社団法人 俳人協会発行の「俳句文学館(月刊新聞)」10月5日の記事で師系について鈴木鷹夫氏の講演内容が載っていた。その中で鈴木氏は次のように述べている。
「真の師とは、その作品に心酔して、さらに人間としても尊敬し、その生き方にも共鳴して影響を受ける人物を指す」。
納得のいくお言葉であるが、人間として尊敬する…生き方に共鳴する…そんな人物には昨今なかなか出会えないものである。
現在の俳句の裾野の広がりと師弟関係について氏はこう述べる。
「現在はカルチャーセンターなどの講座から出た人が多い。これは単なる先生と生徒の関係になっているので、師と一対一で真剣に俳句と向き合う人が少なくなってきた。つまり俳句が単なるお稽古になってしまっている時代である」。
まさにその通り!と頷いてしまう。
そんな現代の流れの中で、師系とは?と問うたとき「伝統俳句の道を歩む者が師系を巡れば正岡子規へ皆行き着く」と鈴木氏は言う。
鈴木氏の場合、「子規―虚子―秋櫻子―波郷―登四郎―鷹夫」となるそうだ。
このように、俳句とは師と師の作品・精神を継ぎつつ自らの作風を自得するというのが大切であると鈴木氏は説かれていた。
「自分の師は、師系のどの辺にいるのか、ということも考えると、その延長線の今の自分の俳句を客観的に見つめることもできる」。
…そこで自分は何を描くのか?どう描くのか?ということになるのだが…
私の場合、まだまだ模索中というところだ。
ちなみに私の師系はというと、
正岡子規(写生・写実【ホトトギス】)
―高浜虚子(花鳥諷詠・客観写生【ホトトギス】)
―水原秋櫻子(自然の真と文芸上の真…主観に裏打ちされた写生【馬酔木】)
―藤田湘子(二物衝撃…季語と写生題材との衝撃【鷹】)
―悠人
となっている。
私はまだまだ師の俳句論を体得するまでに至っていないので、俳句の外周を巡っている程度なのだが、いずれは自分の俳句というものに到達できればと思っている。
五・七・五の十七文字という限られた枠の中で自分なりのスケッチが描けるところまで頑張ってみよう。
まずは、あせらずじっくり行こうと思う。
