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Elvis John kobayashiのブログ

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 私がもの心がついた幼少期、私の家族は何となく他の家庭と違う、と感じていました。私は3人兄弟の末っ子で、自由奔放で活発な少年でした。父親は厳しくワンマンで、母親は父には気を使い、家は貧乏でしたが、私自身は伸び伸びと育ちました。しかし兄や姉は私に比べて、何か遠慮をしている感は否めませんでした。特に姉は父に非常に気を使っていました。私は兄姉と7~8歳の年の差があり、年上だから我慢をしているのだろう、ぐらいにしか考えていませんでした。


 熊本市の下町、本荘小学1年のころ。父が映画を見に行くということで、私は(6歳以下として)ただで入れるからいつも一緒について行きましたが、珍しく兄も一緒に連れて行くということで、私は兄姉も一緒だろうと思い嬉しくなりました。ところが、姉も一緒に付いて行こうとしたら「ぬしゃ(おまえ)は付いて来んでよかが!」の一言で、姉が後ろから寂しく見送っていた顔を、思い出します。「なんで姉ちゃんを連れて行かんのだろう?」思い出すと今でも胸が“きゅん”と閉めつけられる、幼いころの思い出です。


 小学6年の卒業間近、中学入学手続きをした時、戸籍謄本で私は両親の「長男」になっているのを発見した。母に「お母さん、僕は次男だろう!」と問いかけますと、母が腹をくくったように「雄二にも言っても良いかもね」と言いながら本当のことを話してくれました。父が兄を連れ、母が姉を連れ、再婚して私が生まれたことを。今までの「なんでうちだけが・・・」の謎はすべて解けました。しかし、我が家は普通の家庭とは違うんだなあ・・・、一抹の寂しさは否めませんでした。ただ私が精神的不安定を迎える思春期の直前だったのは私には救いだったかも・・・。


 姉から後で聞いたのですが「父に喜んでもらうためにはどうしたら良いか?」をいつも考えていたそうです。その努力が実って、姉が結婚するころの我が家は、姉が居ると父との会話に花が咲いて賑やかな我が家でした。姉の結婚式が終わり、父が「花嫁姿がきれいだった」と言っていて、本当の父娘になったようで私も嬉しかった。


 私が26歳で結婚して、5月の連休に福岡の新婚宅に両親が泊った翌日から体調を崩した父でした。その後体調は悪化の一途、梅雨の真っ只中、受け入れ病院から断られ、事の重大さに家族全員が集まり父の決意が述べられた。私は父の死の覚悟に、ただひたすら治療をさせたい一心で、沖縄にいる医学生M君に連絡を取り、熊大教授を紹介してもらい、すぐ熊大病院に入院できました。この時、今までワンマンだった父が私の言うことに始めて従順に従ってくれたのにはちょっと驚きました。強ぶってても、きっと父も内心すごく不安だったんでしょう。


 父の病状は末期の胃がん、7月に手術、その後家族全員で交代で介護にあたったが、そのかいもなく、昭和50年10月12日、62歳で息を引き取った。


 我が家の大黒柱が居なくなり、あっという間に家族がバラバラになった。兄は家に干渉せず距離を置き、姉は離婚し、母はそんな兄弟をまとめきれず、私がまとめようとしたが、逆に姉とも離反してしまい、「何故我が家だけこんなになるのだろう」と、ちょっと我が境遇を嘆いたものです。


   あれから40年経ち、母も7年前、鹿児島で90歳の生涯を終えた。私に比べて兄姉は両親の愛情を受けにくい環境で、いかに我慢を強いられたか、今になってやっと分かってきました。最近は兄姉に対して何もしてあげれない無力さを痛感します。

 両親を責める気持ちは全くありませんが、子連れ再婚同士の家庭を築くためには(計り知れない苦難も多いでしょうが)子供のために「親としての覚悟」を持って、全身全霊を傾け、もっと愛情を注ぐことが出来なかったものか?私も人の親として、我が子に対して、夫婦で「親の覚悟」を自問自答する日々です。