「2020年・・・東京オリンピック・・・1964年」 | Elvis John kobayashiのブログ

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 9月初、札幌でダスキンレントオールの会議があり、その帰りに東京の長男宅に寄った。翌8日早朝(4時過ぎ)起床したら、テレビで「2020年オリンピック開催地」決定直前だった。イスタンブールと東京のVTRが流れ、いよいよ発表・・・・。緊張の一瞬、オリンピック委員会会長が「TOKYO」と読み、書かれた書面を見せた時、私は横で眠っている妻のことを忘れ、「やった!」と叫んで立ち上がってしまった。まさか、私の生きている(かどうかは正確には分からないが、7年後に向け心身の健康に努めたい)間に2度もオリンピックを体験出来るとは、思わなかった。


 1964年当時を思い出してみたい。当時は高度成長真っ只中。新幹線や高速道路の建設ラッシュが続き、一種異常な高まりを感じていた。しかし中学3年生の私には、新聞・TVを通して少ししか政治経済のことは分からなかった。私は中学1年ぐらいから始まった思春期がピークに達していて、感受性が強く、精神的に不安定で、よく友人や先生に喰ってかかるような「反抗期」にだった。


 当時我が家ではステレオを買って、我が家に音楽のシャワーが一気に溢れた。毎週金曜21時「9500万人のポピュラーリクエスト」と言う、はがきのリクエストで順位を決める洋楽ラジオ番組があって、私にはお気に入りの曲や歌手の情報源であり、ランクの上下に一喜一憂していた。その年は欧米で音楽界を席巻していた「ビートルズ」が日本にも本格的に上陸。私は最初「うるさいだけ」と毛嫌いしていたが、LPを聞いて見ると、意外とメロディラインがきれいで、あっという間に好きになってしまった。


 中学校に入り、私は大好きなマラソンだったが、8歳年上の兄の「球技が良い」の意見に従い、クラスメイトが入っていた「バスケット部」に入部した。ところがその彼はほどなく辞め、私も夏休みで行かない癖が出来、そのまま退部してしまった。と言って陸上部には入らず、私一人で好きなように練習して、冬場の校内マラソン大会では、クラスで2位・全体では10位台(1位は熊本市で断トツトップ、社会人となって本格マラソンに進んだU君)だった。中3では、上位を占める陸上部員の中で、U君ともう一人がダントツで1位・2位は確実、私は部外なのに密かに3位を狙っていたが、最後のスパートで負け、4位だった(男子400人中)。その年の市内中学マラソン大会に「白川中学」代表として出場した。


 そういうこともあって、東京オリンピックでは私はマラソンが一番好きだった。日本人の前評判は、エース君原健二で、私はメダルを大いに期待していた。「アベベ」が断然トップで連続金メダルと言う初の偉業に神の領域を感じた。逆に期待されながら8位に終わった日本のエース“クビ振り”「君原健二」から、主役は銅メダル「円谷幸二」に代わり、私にとって初めて社会・マスコミの無情さを痛感した。「次は僕がこの悔しさを・・・」とマラソンが終わるや否や、外に飛び出し、走り出されずには居られなかった。(ちなみに、君原は翌メキシコオリンピックで銀メダルを獲得した。)


 あれから半世紀経った64歳の今、振り返って見ると、私のライフワーク(唄うことと走ること)を決定した「1964年」は私にとっては大きな節目となった年だった。

 そして、7年後の2020年、バブル崩壊から始まった「失われた20年」にピリオドを打ち、日本再生のきっかけとなり、日本経済が新しい時代を迎えることを一日本人として、大いに期待したい。


 そして私は2020年には71歳になるが、その2020年に向けて「3つの目標」を立てた。1つ目は71歳まで「フルマラソン」を「5時間以内」で完走すること。2つ目は「ELVIS JOHN 小林」として唄い続け「鹿児島のプレスリー」と言われるようなになり、鹿児島のマスコミにも、ダスキンファミリーでもその存在をアピールすること。3つ目は「東京オリンピック&パラリンピック」に間接的にも関われるような仕事・事業を創造すること。私の10年計画に盛り込み、ぜひ達成したい。