7月下旬、お付き合いのあるC居宅介護支援事業所(ケアマネジャーがいる事業所)のTオーナー様から、お電話をいただきました。「10月にコンサートをするから、出演して欲しい」と言うオファーでした。あまりにも突然のことで、あまり訳が分からないまま、それでも出たがり屋の性格が功を奏し?、即快諾しました。
後日、お伺いして詳しく話をお聞きすると、Tオーナー様は演歌歌手もされ、CDも出されて鹿児島で活躍されているプロの歌手で、一緒に共演される日本舞踊(男性)も定期的にコンサートやホテルで九州各地で活躍されているプロの方でした。今回のコンサートも、2年に1回、鹿児島市中洲通にある「サンエール鹿児島」の400人大ホールで開催され、入場料も有料(1500円)すると言うコンサートで、ポスターまで作ると言う、本格的なものでした。
「こんな素人の私でも良いんですか?」とお聞きしました。実はそのコンサートの前座として「カラオケ教室」の上手な生徒さんが2名ほど出演され、その後に私“ELVIS JOHN 小林”を登場させたい、と言うことで、「なるほど!」と、やっと合点が行きました。
結局、私の持ち時間は10数分で「ライブ&トーク」ショーの打合せをさせていただきました。「アナウンスの紹介とともに、音と照明の中、唄いながら登場、トークを交えて3曲ほど歌いながら、と言ういつものスタイルで行こう!」お話をお聞きしながら、頭の中は既にイメージが出来ていました。観客層が40~50代の女性と言うことで、彼女たちに喜んでもらえる「洋楽&トーク」を練習しなくては・・・帰路に着いた時には、既にその構想は出来上がっていました。
今回から2回に渡って、こんな「私と唄との関わり」をひも解いてみたいと思います。
実はものごころついた時、「唄や楽器演奏は“女”がするもの」と人前で唄うのは“男”じゃない、と思っていて×でした。「僕は意外に唄が上手い!」と分かったのは、小学5年のバス遠足で、当時の人気ドラマ「怪傑ハリマオ」を唄った時の「快感」からです。昭和34~35年には、TVが家庭に猛烈に普及し始めたころで、歌謡曲や洋楽の番組が多く、特に日本人が日本語で唄う「洋楽」がなじみ易く、「夢で逢いましょう」や「若い季節」「ヒットパレード」などは目を皿のようにして見ていました。
中学2~3年は人生が一変したような事件の年でした。姉が中古のステレオを購入し、初めて330円のドーナツ盤レコード「ナット・キング・コール“ルート66”」を「絶対後悔しない」と決意して買ったり、ラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」をかぶりついて聞いたり、TVでアメリカのおしゃれな現代ドラマ「ルート66」「サーフサイド6」「サンセット77」(何故か数字が多い)をかぶりつきで見聞きして、すっかり外国かぶれになり、次第に「人前で洋楽を唄いたい!」と思いようになりました。
もうひとつの事件は、TVやラジオ・映画雑誌の媒体を通じ、ビートルズを中心にR・ストーンズはじめリバプールサウンズ、アメリカからはビーチボーイズやウエストコーストサウンズ、その他フランス・シャンソン、イタリア・カンツォーネまで、私の周りにはミュージックが満ち溢れていました。「灰色の受験生活が終わったら、絶対唄い、踊り、ステージの主役になって、かっこいい女の子と付き合うぞ!」燃えるようなエネルギーは尽きることはありませんでした。
しかし熊本大学入学時は「大学紛争」真っ只中!キャンパス内が騒然としていて、学内サークル活動に入部する機会を逸してしまいました。大学2年になって、やっとクラブ(大人の社交場・キャバレーよりも上品)のウエイターとしてJAZZバンドと接触し、念願のボーカルとして、人前で唄うことが出来ました。その頃です「ジョン・レノン」の唄う真似をしていたら、バンドの人たちから「ジョン」と呼ばれるようになり、そのまま「ジョン・小林」が芸名になってしまったのは。
ところが、そのバンドマスターI氏が、昔長崎で活動していたころバンド仲間だった「内山田洋」が「クールファイブ」を結成し上京して、「長崎は今日も雨だった」で大ヒットしたことに触発され、あろうことか「歌謡コーラスグループ」を目指し始めたことから、このジャズグループもそのチャンスを狙って熊本を中心に博多・鹿児島と巡業の旅が始まる。さあ我が「ジョン・小林」の運命は?