令和3年6月1日(火)晴れ

今朝も天気が良くロードバイクに乗り当てもなく河北潟の方へ行き、先日記事にしたひまわり村へ行くと、前回見たクリムソンクローバーの花が一面に渡り耕されていて花が全く見えないのである。目の前に行くと写真を撮っている方がいたので、いつ耕されたのですかねと聞くと、この方、2日ほど前にも来たらしく、その時はまだ花が見れたので多分昨日耕されたのではないかと言うのである。この事をブログに書くのですが、写真を載せてもいいですかと聞くと、構わないですよと言うので撮らさせてもらった写真で有る。

前回の続き

ロードバイクで行った所その362

昨日の能登カントリーからロードバイクで15分も行くと末森城跡があるので、今度は末森城跡を目指し12分ほどで駐車場に着いた。ここは、私のブログで度々登場するが、詳しくは、説明書きに「末森城攻防のようす」と書かれ、読むと、押水の地は、能登の中でも最大の荘園でした。この「大泉庄」は、宝達山系と海岸線が最もせばまった地形にあり、古くから加賀、能登、越中へ通じる交通の要となっていました。天正12年(1584)、その頃越中の富山城にいた佐々成政は加賀と能登を分断し、前田氏の勢力を弱めるのに最も適した末森城を手にしようとしたのです。成政は、同年9月8日の夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城を出発をし、砺波の宮島から沢川を経て、今の津幡地内の牛首に入りました。9月9日には、先陣が吾妻野(東間)の天神山に達し、午後2時に本隊が末森城まであと4,5kmの坪井山に本陣を構えました。翌10日の朝、佐々軍は戦いを開始。この情報をいち早く金沢城に連絡したのが午後2時でした。この知らせを知った利家が金沢城を出発したのが午後4時、そして当日の午後9時には津幡城に入り、後に続く利長を待って、津幡城を午後11時に出発し、11日午前4時に末森城から1,5km西方の鯨骨山に到着しました。そして数時間にわたる戦いの後、利家軍は末森城のからめて(城の裏門)より本丸へ攻め入りました。形勢不利と見た佐々軍は、隊を整えて退却をしました。しかし前田軍の援軍といっても数千人。城内にいた兵も5百人たらずでした。一方の佐々軍の兵は1万5千の大軍でしたが、奥村永福の武勇と前田軍の奇襲によって、佐々軍は乱れてしまいました。戦いの上では優位であった佐々軍の後退は、遠く離れた敵地での補給や、退却する道の確保が困難との判断から、余裕のあるうちに後退したのでしょう。佐々軍は、河北郡の横山を通り、(この時の様子を北書いたのが下記の記事である)

 

 

津幡町の吉倉山から鳥越城を経て俱利伽羅城へと引き上げました。前田利家の戦勝によって、織田信雄(信長の次男で、秀吉の怒りに触れて追放)や徳川家康に対抗していた豊臣秀吉にとっては有利なものとなりました。この戦い以降、前田利家は勢力を越中にまでのばしますが、末森合戦こそ前田方が加賀、能登、越中の三国を支配するきっかけとなった。と書かれているのである。

続く