前回の続き

津幡ふるさと歴史館の横を行くと冷泉為広の塚があるのである。

冷泉家と言えば京都のお公家さんで何故ここに冷泉家の碑があるのかと思い説明書きを見ると、やはり京都の冷泉家の流れをくむ人で、この方、京都で細川氏が勢力を伸ばし1508年(永正5年)に仕えていた足利義澄が失脚した時に為広は出家をし、晩年は先日記事にした能登七尾城の畠山氏を頼り身を寄せ1526年(大永6年)に77歳でその生涯を終えたのである。

1570年の寛延年代の頃、清水八幡神社のそばにあった広塚と呼ばれる場所を俳人河合見風らが調査したところ冷泉為広の墓であることが明らかになり、1765年(明和2年)に加賀八家の前田土佐守や見風らが石碑を建立したと言う。当時の清水八幡宮に隣接してあった塚のそばには五層石塔や塔守屋敷があったと言われ、里人らは塔屋敷、広塚などと呼び親しんだそうである。

このことを子孫の冷泉為村が聞き為村は、為広の墓の発見と墓標建立のお礼にと為村が和歌を作り清水八幡宮に奉納したのであった。

下記がその和歌である。

かわらしな 八幡の宮の 石清水 こゝも清水の 清きみつかき

続く