前回の続き

前回では俱利伽羅の古戦場で平家軍が木曽義仲の「火牛の計」で大敗をし、これを知った平知度が駆け付け激戦の上自害をしたと書いたが、この倶利伽羅古戦場の事は以前記事にした事があったのだが、ここに当時をしのぶ戦場跡があるのである。

平家軍の総大将、平維盛(平清盛の嫡男重盛の長男)は倶利伽羅山の猿ケ馬場に本陣を敷き木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていたのである。対して義仲は埴生八幡宮で戦勝祈願を行った後、夜が更けるのを待ち夜半に400から500頭もの牛の角に松明をくくりつけ平家の陣に突入したのであった。

平家軍は昼間の進軍で疲れていたのと源氏軍の奇襲に混乱をし何もできず追い詰められ、人馬もろとも谷底に転げ落ちたのであった。

深い谷は死骸で埋め尽くされ、谷川は地で赤く染まり、やがて死骸から流れ出た膿が下流に流れ込み、いつしか谷は地獄谷と呼ばれ、膿が流れ出た川は「膿川」と呼ばれるようになったのであった。そして、ここには芭蕉が木曽義仲を偲んだ句が残されているのである。

芭蕉は大の義仲びいきで奥の細道の旅の5年後に亡くなったのだが、芭蕉は亡きあとは義仲の隣に葬ってほしいとの願いで義仲が眠る滋賀県大津市の義仲寺にある義仲の隣に葬られているのである。

続く