前回の続き

中津城を見学していると奥平家の家臣である鳥居強右衛門の磔のスタンプが有ったので押したが、この鳥居強右衛門、以前呼んだ山岡荘八の長編小説、徳川家康に登場するのだが、この人、中津城の城主、奥平貞昌の家臣で、戦国史上最も有名な足軽なのである。

足軽など後世に名が残る事はないが、この鳥居強右エ門、世に名高い長篠の戦の前哨戦で武田勝頼に攻められた長篠城に立てこもり防戦していた城主の奥平貞昌が食料も尽き、落城まじかになった時に家康の岡崎城に援軍を頼む事になったのである。

当然命がけで簡単にはできないのだが、この使者を足軽の鳥居が「我にお任せあれ」と申しに出たのであった。

警備の厳しい中、夜陰に紛れてどうにか岡崎城にたどり着いたのである。

その時に岡崎城にいた家康と信長にも援軍の了解を得た後、引き留められるにもかかわらず長篠城の味方に一刻も早く援軍の事を知らせたく長篠城に戻ったのであった。

だが運悪く勝頼の軍にとらえられたのである。

勝頼は長篠城に向かって援軍が来ないと叫べば自由にして、なおかつ取り立てて褒美もやると言われ、言わねば即処刑だと言われたのだが、此処で鳥居は一計を案じ、分かりました。では命だけはお助けしてくださいと言い命令に従ったのであった。

そして長篠城に向かって、まず勝頼が「よいか奥平、良く聞け、これが徳川の返答だ」と言った直後に鳥居は「援軍は後2~3日で必ず来るぞ、だから行き抜け、何があってもだぞ、と叫んだのであった。

その後、鳥居はスタンプのように磔にされ槍で突かれ絶命したのであった。

その後、名高い長篠の戦で武田軍は敗れ、織田、徳川連合軍の大勝利になったのである。

この戦で長篠城を守り抜いた奥平貞昌は、その後も活躍をして中津川城の城主になったのであった。

この一介の足軽である鳥居の為に信長はお墓を建てたのである。

お借りした写真だが、この英雄のお墓、何か所かあるが、写真の甘泉寺のお墓が信長が建てたお墓だそうで、この甘泉寺には他にも名高い武将のお墓が有るが、この足軽の鳥居強右衛門のお墓の方が立派だそうだ。

続く