前回の続き
羅漢寺を出て中津城を目指し川沿いの道を走っていると「青の洞門」と書いた案内看板が有った。
この「青の洞門」旅で耶摩渓を訪れていた禅海和尚が難所の「鎖渡しの道」で多くの人馬が崖から川に転落していることを知り、これを知った禅海和尚はこの地に洞窟を作ることを決意したのであった。
当時この道は断崖絶壁で鎖がかけられていただけで足場も非常に悪かったのである。
当然、当時は機械がなくノミと槌でこの難工事をやったのである。
又資金集めに托鉢などをやり、その資金で石工を雇い着工から30年後の1764年に工事を完成させたのである。
その後、改良がされ1750年以降には有料になり「人4文、牛馬8文」を徴収するようになった事から日本で最初の有料道路と言われているそうだ。
この話を大正8年に菊池寛が「恩讐の彼方に」で小説で発表してからは一躍有名になり映画化され、またもテレビでも放送されたのである。
「恩讐の彼方に」のあらすじだが、過ちを犯した市九郎は出家して名を了海と改め、罪滅ぼしの旅に出かけ、旅の途中耶摩渓に着き、それからは記事に有るように洞窟を掘っていたのだが、そこへ過ちを起こされた側の息子が仇討をするため、この耶摩渓へ来たのであった。
しかし了海と共に働いていた石工が工事の完成まで待ってくれと願ったところ、息子は仇討を洞窟の完成まで待つ事になったのであった。
その後、息子はいつしか共に手助けをして工事をする事になり、ようやく工事が完成した後、約束通り了海は自らを討たせようとするのだが、長年共に働くうちに仇討の気持ちが薄れた息子は、了海の膝に縋りつき号類するのであった。
この結末日本人には好まれるのか、小説、映画、テレビいずれもヒットしたのであった。
続く