前回の続き
池田湖を離れ次の知覧特攻平和会館に向かう途中昼食を摂り、2時頃に知覧特攻平和会館に着いたが、土砂降りの雨なのである。

暫く待っていた所、いくらか小降りになったので慌てて会館に入った。
この知覧特攻平和会館は第二次世界大戦末期の沖縄戦の頃、陸軍が特攻と言う、今まで人類が経験した事のないような作戦を考え戦闘機に爆弾を積み、片道しか飛べない燃料で飛び立ち、飛行機と共に敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や資料などが展示されている施設なのである。
私が結婚して九州を新婚旅行に来た時は、此処の存在を知らなく来てはいないのだが、15年ほど前に泊まった旅館でこの施設の事を書いた本が有り読んだのだが、涙なしでは読めない事が書いて有ったので、鹿児島の方に行く機会があれば何とか行きたいと思っていた所だったのだが、今回やっと念願がかなったのであった。
順路通りに見学をして行き、遺書などを読むとやはり胸がつかえる思いである。
また遺書で思ったのだが、数ある遺書の中で、勿論、恋人、兄弟、親、天皇陛下と色んな方に遺書を残しているのだが、その中で母親あての遺書が特に目につくのである。
その中の一つを下記に紹介したが、実の親ではなく継母に当てた遺書なのである。
相花信夫少尉より継母へ
母上様御元気ですか永い間本当に有難うございました
我6歳の時より育てて下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりともなく慈しみ育てて下されし母
ありがたい母尊い母
俺は幸福であった
ついに最後まで「お母さん」と呼ばざれし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だろう
母上お許しください
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばせて頂きます
お母さん お母さん お母さん
と、遺書を残し南方の海に18歳で散華したのである。
この記事を書いていてもやるせなくなり目頭が熱くなるのであった。
続く