平成30年2月19日(月)曇り

先日デコトラの事を記事にしたが、放送ではデコトラの他に飢饉とかコレラの事も触れていて、この飢饉、昔は東北の方では今ほど農業技術が発達していなく、冷害で良く飢饉になったと学校の授業で習ったが、中でも最大の飢饉は1782年(天明3年)に起きた天明の大飢饉で、この飢饉が日本近世史上では最大と言う、この時代、悪政で名高い田沼意次の時代で日本中が飢饉に襲われたのだが、特に東北地方はひどく南部藩の支藩である八戸藩では天明3年の収穫高は殆どなく、翌年の収穫高も例年の半分程度で何年も続いた飢饉で多くの餓死者が出たのであった。

天明5年に藩が調査した人口では6万人余りの内3万人が死亡したと言い、余りにもの多さに処理しきれず海岸べりの崖から海に投げ入れたと言う、この状況を記した碑が八戸市内の対泉院に有るが、石碑の裏面には当時の飢饉の内容が記されていて、その中にはかっては人肉を食したと記されていたのだが、今はその記録は削り取られていると言う、また八戸藩士だった上野伊右エ門と言う方の見聞録で「天明卯辰簗」には当時の様子が書かれてあり、その一つだが、天明4年に有る宿屋に一人の女性が訪ねてきて、次のように言ったそうだ。

「こちらの家で爺さんがなくなられたと聞いてやってまいりました。

どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか、うちの爺さんも、せいぜいあと2~3日かと思われますので、その節にはすぐにお返ししますので」というのだが、この文面は余りにもひどく、放送では触れてはいなかったが、この事を調べると、餓死者は当然だが、他にも夫婦間で殺しあう、我が子を殺す、他の村を襲い食したとも書かれていた。

おぞましい画像だがお借りしたものである。