気仙沼日記544回「小原木小、閉校でパネル展」 | 西和賀日記 山・雪・味・人 楽しき農山村 

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奥羽山脈「真昼山地」に魅せられて65歳で岩手県和賀郡西和賀町に移住したおじさんの暮らしぶり

気仙沼の北東の外れ、唐桑町に小原木(こはらぎ)小学校があります。

この3月で145年の歴史に幕を下ろし、閉校するそうです。




唐桑半島のつけ根、大理石海岸の上の、丘の上にある小学校です。


保管されていた日誌や写真、資料で学校の歴史を振り返るパネル展が昨3月2日から、小原木公民館(小原木中の1階)で始まりました。




宮城学院女子大や気仙沼市教委の協力で、3月18日まで開催するそうです。

ひとつの学校がなくなるというのは、地域にとっては大きな損失であります。

僕はよそ者ですけど、無関心ではいられません。

さっそく行ってきました。






日誌や資料を接写してパネルにした展示です。

興味深い記述がたくさんありました。


〇1929年(昭和4年)7月31日

「児童生徒汽車見学ノ為気仙沼に赴ク」

ところが欄外に走り書きのメモが…

「本日、児童生徒ヲ引率シテ見学セザル理由

一、気仙沼町ノ本日ハ、雑踏未曾有ノコトト思惟シ、責任ヲ以テ引率不可能トイフコト

二、各父兄ニ頼ミ、各自見学セシメタル方、却ッテ宜シキコトゝ認メタルタメ」


目的を果たせなかった引率教師の”言い訳”が、大真面目に書かれていて、ほほえましいですね。

でも、そのメモの背景には、気仙沼駅が開通したという気仙沼の大きな歴史があるんです。




上の写真は、衝撃的な日誌です。

〇1933年(昭和8年)3月3日

「午前二時半、津浪の来襲ありて悲惨なる被害を受く。殊に只越部落の流失、大沢部落の惨害著し」

昭和三陸地震津波の発生が、筆圧つよく濃い文字で書かれているのです。

小原木小なので、教師は学童のいる只越や大沢のことしか頭になかったのかもしれません。


このほかにも、昭和3年5月1日「33年前の津浪(明治三陸津波)溺死者に焼香」とか、昭和16年12月8日「午前十一時十五分、米英に宣戦を布告す」など、歴史に刻まれた出来事の記述があります。


ほのぼのとした学校生活や季節の行事、元気な子供たちの様子が伝わってくる展示も多く、胸が熱くなりました。

家族で来ていた中に80歳を越えているとおぼしきおばあさんがいて、曲がった腰から身を乗り出すようにして展示に見入っていました。

パネルの中に、子供のころの自分を探していたのかもしれません。 (3月3日)