あの日から5年、今日は6回目の命日です | 妻を亡くした夫と母親を亡くした娘の生活

妻を亡くした夫と母親を亡くした娘の生活

2016年9月病院で愛妻が亡くなりました
夫は翌年大学生になった娘と愛犬2匹と暮らしていました
2022年11月二女が動物病院で亡くなりました
2024年1月に三女が後を追うように亡くなりました
大学生の娘と二人家族になりました

今朝の横浜の空、昨日に続いてどんよりと曇っています。昨夜からの雨はいったん止んでいますが、南関東地方はかなり強い雨が降るという予報なので、洗濯物は浴室乾燥にしました。

5年前の今日は朝から残暑の太陽がジリジリと照り付けて、暑い1日だったことが記憶に残っています。午前8時前に妻の主治医の補佐役である女医さんから自宅に電話があり、家族に待機してもらいたいと言われました。いよいよこの日が来たかと覚悟を決めた時間でした。

2016年7月14日早朝に寝床で高熱を発した妻が、救急車で大学病院に搬送された日から51日目でした。入院当初は原因が解明されれば命に別条はないという所見だったかと思いましたが、結局一度も病院を出ることもなく、それどころか一般病棟に移ることも無くICUで息絶えました。コロナ禍の今を思うと、家族で「見送り」が出来たことは何よりでした。女医さんから連絡があってから、平日早朝の空いている国道をクルマで片道30分、病院に到着してまずは妻と面会しました。目は大きく見開いており、こちらのいうことは理解出来ているみたいでしたが、喉が切開されているので声は出せません。家に引き返して長女を連れてくることを覚悟しました。長女は一般病室に移ったところで面会させようと思っていましたので、結局入院から一度も会わせることが出来ませんでした。本来ICUは面会謝絶の場所ですが、義父母には2〜3度案内したかと思います。私は51日間連日会いに行きましたが、原則として30分が限度です。

家に引き返してから長女と義父母を伴い病院に戻りました。妻は家族が揃ったことで自分の最期を理解出来たのでしょうか、目は大きく見開いているのですが、その目から意思の確認はできませんでした。いよいよお別れの時が迫っていました。主治医がその時が近付いたら連絡するということで、われわれ4人は病院内のロビーやカフェなどで待機しました。昼下がりの太陽が眩しかった。午前中から待機していましたが、私の携帯が鳴ったのは午後3時を過ぎた辺りでした。ICUのベッドの周囲にパイプ椅子が4脚揃えてありました。病室ではないので、本来は面会用の椅子はありません。看護師さんたちが最期の別れのために用意してくれました。1時間ほどのお別れの時がゆったりと流れました。時計を見ることも忘れて、ひたすら心の中で妻へのこれまでの感謝の気持ちを念じていました。ドラマのようなお別れでしたが、ドラマでは見られないことも起こりました。臨終後大きく見開いた妻の両目を、私は閉じるために右手を軽く当てて塞ごうとしました。しかし、固く開かれた両瞼は簡単に閉じることはありませんでした。ドラマでは手を当てて降ろした瞬間に瞼は閉じられたはずでした。でもそれは嘘だと分かりました。私は心のうちで妻にごめんねと言いながら、右手の人差し指を強目に当てまずは右瞼を、続いて左瞼を閉じたのでした。