前回フロイトと精神分析学のQuick reviewを行いましたが、フロイトがヒステリー治療から除反応(無意識の抑圧を意識化することで症状が消失するという(後のブロイアー曰く)カタルシス療法)に気が付いた辺り(注1)から、彼は無意識を含む精神世界像を独自の解釈で構築(注2)してゆきました。

注1フロイト『自我とエス』(1923

注2:彼は人文系というよりも理工系のバックグラウンドを持っており、主観的現象記述をそのままにすることが出来ず、恰も構造や実態を持った自然科学「風」に構築したかったのかもしれません。

 

フロイトの描く精神世界(または「自我の構造は、

 

というものでした。

:フロイトは「自我(ドイツ語Ich-英語’I')」という言葉を、人格の主体である広義の「自我(Ich)」と、上記心的構造の中でエス(ドイツ語ES-英語'it')と超自我(UBER-ICH-'Super-I')を調整して適応する狭義の「自我(しばしばラテン語のegoと訳されます)」があります。

 

これを少し解説、コメントすると...

 

エス(イド)

ESは、ドイツ語の3人称単数の代名詞(「それ("it")」)を意味します。一方IDはラテン語の「それ」を意味します。

精神分析学では「エス」も「イド」も同じもので、人間のあらゆる本能的な生存欲求の源となる「領域(フロイトはそう考えた)」で、(当時批判されたように)しばしば(「種」の生存欲求である)性的欲望、欲求と関連します。欲求、欲望は意識される場合もあれば、無意識である場合もあります。
前に神経科学の所で、生体反射的機能をつかさどる延髄や内臓等の機能をつかさどる小脳などが、「無意識」で生命維持を行っていることを書きましたが、そのような(脳の前頭葉皮質の「高次な脳機能」をプログラミングにおける「高級言語」に譬えれば、アセンブラーや低級言語Cのような)原始的な生存欲求、欲望である食欲、睡眠欲、性欲等の主観的現象記述だと愚考しています。

 

超自我
エス(イド)の対局にある超自我(Uber-Ich)は、生後の親のしつけや成長するにつれ受ける社会的要請等で形成される"Does and Dont's"という「ルールや規範、道徳を重視する領域」であるとフロイトは考えました。

 

何故フロイトがこのように考えたのかというと、彼は先ず「母親に対する(しばし性的な)愛情とその障碍となる父親に対する敵意が禁忌として抑圧される(後にそう呼称することになる)『エディプスコンプレックス』を想定し、それを生み出した抑圧者が超自我であると着想するようになったからです。

当時の書簡から、彼は自己分析を行って(当時のオーストリアや欧州の文化的な背景のもとに)自らにエディプスコンプレックスを見出し(「僕は母親への惚れこみと父親 への嫉妬を自分の中にも見つけたのです。」)、それに対する抑圧自覚して、その抑圧者こそが超自我とその役割であると考え始めたことが覗われています。(

エディプスコンプレックスの形成と変遷.pdf その後、個人に限らず「トーテムとタブー」では社会心理学的にも「父殺し→王殺し」というエディプスコンプレックスが存在すると壮大な「発達文化理論」にも発展します。なお、(女性用の「エレクトラコンプレックス」もありますが)フロイトの「エディプスコンプレックス」に対して批判的であったのが女性精神分析学者のメラニー・クラインであったことは印象的です。

 

 

私は精神分析を学び始めた学生の時から、この「エディプスコンプレックス」は19-20世紀のキリスト教的欧州文化が刷り込まれたフロイトの「投射」理論だと疑っていましたが、クラインの「エロス対タナトス」などを持ち出す以前に、超自我は「投射と摂取」という精神分析の防衛機構から説明されるべきだと考えていました。要すれば親や他人からしつけられ、叱られ、懲罰を受けた経験からその「(社会的)権力者を摂取(他者の取り込み)」し、今度は自己を他者化して「他者化した自己を『しつけ、叱り、懲罰する』ようになる」訳です。

 

何れにしても、このような何ら事実による検証もないファンタジー(ギリシア神話(エディプイス)や悲劇(エレクトラ)からの命名からして詩的ですが)を、神経症の臨床治療から文化人類学迄敷衍していけた(反対や批判も多かったが、過去から現在に至るまで多数の人が受け入れた)ことが「フロイトの直観力の天才性」ともいえると思います。(

:もはや「学」ではなく、「文芸」としてですが。事実、フロイト全集も「大河小説として読める」と私は思います。


自我
エスと超自我の間に挟まれた中間的、調整的領域としての「狭義の自我」で、その存在は弁証法的です。この自我は常に意識的であり、自意識の光の当たっており、見当識(現在の状況を把握する能力で、時間や場所、人物などに関する認識 )の主体となるものです。↑の図では「無意識」と「前意識」()の間にありますが、
:「無意識」ということばもややあいまいで、「意識されていない」が「(抑圧等により)意識化できない」と「意識しようと思えばできる」に分かれるとフロイトは考えます。後者を前意識と言います。

無意識
意識化しようと思えば、思い出すように意識に上る「前意識」と異なり、(狭義の)自我が自意識の光の当たるところであれば、その光が当たらない(広義の)自我領域が無意識の世界だとされます。コンピューターの世界でいえば、ハードウェアやOSのサービスを担当するものは多くは「無意識的」です。

 

以上でフロイトの「自我世界」のあらましの解説を終えますが、まぁ、ザックリと現在の私に言わせてもらうと、↑の図(「自我世界」)は

 

当時のキリスト教的、父系(男性)社会的、欧州(欧州の中のユダヤ)的、自然科学(の志向)的「フロイトという個人」の内省を現象として「エポケー」の上で記述することなしに、「整合性、科学性、客観性を擬態した壮大な叙述詩」を理論体系とした「疑似科学」精神分析学の顕著な一例

 

ではないかと思います。しかし、同時に

 

現在でも、異なる人種、国籍、言語、性別、年齢の多くの人が、彼の壮大な叙述詩である精神分析学の様々なテーマに共感(同意)を示していることは極めて素晴らしい(文芸的)作品

 

と言えるのではないでしょうか?また、精神活動という

 

単なる脳細胞のシナプス結合、その興奮や機能という客観的観察と同じものが、内省的叙述によりこのように表現され得る

 

という「現象を外と内から観る」相違に深い感慨をもってしまいます。そう思いません?