2年近く前の「SLトーク 過去と今を生きる蒸気機関車」の聴講禄(速記)を公開します。
これは、2006年に茨城県筑西市にある「しもだて美術館」の集会所にて行われたものです。
当時、この美術館では写真展・永遠の蒸気機関車 くろがねの勇者たちが開催されており、この関連イベントとしてトークショウが企画されました。パネラーは、レイルマガジンの名取氏と真岡鐵道の湯浅課長におこし頂き、名取氏が湯浅氏にインタビューする形式でトークが進行しました。
湯浅氏はもともと国鉄でSLの機関士をされていた方で現役当時の貴重な経験談をいくつも披露していただき、SL好きには大いに参考になるイベントでした。
私がメモに速記したものを箇条書きではありますが、参考になればと思いご紹介します。
関連ページ
http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2006/08/sl_2.html
-------------- 以下、速記禄 ---------------------
2006.8.5
アルテリオ1階集会所
名取氏(レイルマガジン編集長)、湯浅氏(真岡鐵道)
■SL全盛時代の水戸機関区の話
大きな機関区で、国鉄5大機関区のひとつだった。乗員と地上勤務者を合わせると約700名(乗員400名、地上勤務300名)働いていた。
湯浅氏の国鉄入社が昭和32年。その当時で国鉄職員が43万人の時代で、どこに行っても人だらけだった。
当時の水戸区は65両の機関車を有していた。D51(48)、C57、8620、C58、C12(2)、他にDL試作車のDF90(1)。気動車もいた。
(機関士になるまで)
乗務員の受け持ちは最初に国鉄に入ったコースで決まる。だから機関士になりたい場合、そういった部署に配属されないとなれなかった。
まず、缶磨きから雑用をやらされる。高卒で半年くらいやらされてから、機関助士になるため国分寺にある学校に入るための入学試験を受けさせられる。これに合格すると国分寺に入学して寄宿生活しながら基礎教育を受ける。それを卒業すると機関助士見習となる。それから投炭訓練などを受け、本線で走行する機関車に実際に乗り込んで訓練を受ける。湯浅氏は昭和33年7月に本線での訓練を受け始め、C50に乗って訓練に行ったが台風で運転が中止になってしまった思い出があるとか。C50に乗務したのはS32年に運転競技会で運転したこの1回だけであった。
そして3ヶ月間訓練を受け、この間、C57、C62、C60、C50に乗務しカマタキ等をやった。その後、試験を受けて乗員に欠員がでれば晴れて正式に機関助士になれた。
急行でC6211に昭和33年7月24日に乗務した(北斗)。担当区間は尾久、上野-水戸。時速90km/hで走行するため振動と騒音がひどかった。非常に揺れて湯浅氏が先輩に最初に言われたことは、”つかまっていろ”だったとか。
湯浅氏は最初から自分の乗務記録を全て記録している。他の乗務員でもこれだけの記録を残している人は余りいない。記録の中にはS36.9.18に255列車にて平機関区のD51498にも乗務されている記述もある。
(乗務範囲)
旅客の場合、上野から平、小山。貨物の場合は、田端、隅田川、新小岩、大宮、常陸大子、常陸太田まで入っていた。路線は常磐線より水戸線の方が難しかった。
(貨物列車の牽引)
常磐線では1両の機関車の牽引定数は1100トン(=110両)でした(D51)。機関車の形式によって牽引定数は違う。
編成の長さは、水戸線が44両。常磐線は53両だった。水戸線が短いのは羽黒駅など有効長が短い駅もあったから。
(職場での上下関係)
機関区では先輩との上下関係は厳しかった。若造と呼ばれ腰掛けに座ることは人が多いときなどは遠慮した。お茶も勝手に飲めず、まず先輩方に出してからやっと自分のものを入れるといった具合。機関士と歩くときも、一歩下がって歩くようだった。でも真面目にやるとかわいがってくれた。
(乗務員の担当別ステップアップ)
乗務員の担当毎に”○○組”と分けていた。
特急列車”はつかり”などを担当するのは、"特急組”で超ベテランクラス。その次に、一般旅客や急行などの担当は”甲組”。その次に乙組があり、この乙組も1,2,3組とあった。貨物列車で本線などを担当した。さらに丙組があり、水戸線の貨物列車を担当した。
さらに入れ換え組があって、これは駅構内でひたすら入れ換えのみを行う。その他に臨時組というものもあった。臨時組は他の組で病気等で欠員が出た場合の補充要員とのこと。
先ず入るのは、入れ換え組。水戸駅の場合、8620を使って駅構内の合計3箇所で入れ換えを行っていた。入れ換えができるようになってくると次に乙組に入り、常磐線などで貨物列車を担当する。それができるようになってくると、丙組に行き、水戸線の貨物列車を担当するようになる。先にも述べたが、常磐線よりも水戸線の運転の方が難しく、基本的に水戸線での運転はベテランが任されていた。水戸線は単線のため、駅での停車でのオーバーランが恐かったからという。それから甲組で旅客を担当するようになり、その中から特急組に上がっていく順序だった。
(水戸線での運転)
貨物の場合、水戸から小山まで行ける人と、東北線へ入って大宮にいける人があった。小山までしか行けるひとは東北線はわからないから、大宮までは行けない。湯浅氏は大宮までいける資格があったので、水戸ー小山担当と水戸ー大宮担当を掛け持ちしていた。水戸線から東北線に行くには小山駅には短絡線があった(現在廃止?)。短絡線がなかった時は東北線を大宮方面から来た貨物列車は水戸線に入る前に小山駅で機関車を方向転換し、緩急車を付け替える作業を行っていたらしい。それが大変なので短絡線ができたという。旅客でも”急行つくばね”が短絡線を使って水戸線へ入っていたという。
水戸線の一般旅客は、朝夕の時間帯はC58で12両のPCを牽引して走っていたと言う。編成が長くきつかったそうで、貨物列車に準じた操縦法で運転したという。