玉置神社 山伏とほら貝 | 70 racing project

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T.YOSHIKAWA Official blog

奈良県は十津川村
「神様に呼ばれないと辿り着けない」と言われるスーパーパワースポット『玉置神社』
九月があっという間に過ぎ、十月に入ってもう数日経過してしまいました
あんなに暑かった夏が終わり、急に朝夕が涼しくというか寒ささえ感じるのは私だけでしょうか
もう10日以上たってしまいましたが、11月の玉置山への登拝を、月末ギリギリの30日に行ってまいりました
冬の入口の今は1年で最も陽が短い時期、朝5時すぎに自宅を出発するときには真っ暗です
でも平日で月末の今朝は、クルマも多く真っ暗な早朝から皆けんめいに働いていることを実感します
最近のニュースを見聞きするたび、ため息しか出ない現状を憂うことしか出来ない自分にうんざり

いったいトップの人間たちは何を考えているのか

社会がこんなに乱れるのもみんなあなたたちのせいなんですよ!

ブツブツ言いながら、それでも8時半過ぎに玉置神社の駐車場に到着
いつも通り玉置山登山口からまずは山頂を目指します
昨夜少し雨が降ったのか、ここまで来る道筋も路面が濡れていました
また山頂は雲の中かもしれないと思いながら、登山道を足取り重く山頂へ登って行きました
ところがお天気が快方に向かっているのか雲が多いものの見通しは良くて普通に宝冠の森が見えています
少し霞んではいるものの熊野灘も見えてるじゃないですか
思わぬプレゼントに感謝してまずは沖未地蔵にお参り
宝冠の森に今月も無事にココに来れたことに感謝してありがとうと一礼
もう少しこの景色を見ていたいという気持ちを抑えつつ玉石社に降りました
報告が遅くなってしましたが、11月の玉置山登拝と玉置神社への月詣を無事に済ませてまいりました

 

 

さて今回のお話は、奥駈道第十番靡の玉置山、そして玉置神社には欠かせない山伏

そして山伏と呼ばれる修験者たちはいったいどのような者なのか
またその山伏のトレードマークともいうべき法螺貝(ほらがい)について考察していきたいと思います
山伏は吉野山地の大峯山(金峯山寺、現在の奈良県)を代表に、大山(鳥取県)や羽黒山(山形県)など日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破(抖擻)し、懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的としています
山岳信仰の対象となる山岳のほとんどは、一般の人々の日常生活からはかけ離れた「他界」に属する場所で、山伏たちは山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界をつなぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされていました
富士講や熊野詣が盛んな時代には、先達と呼ばれる山伏たちが地方の信者をバックアップするために全国の霞場(講)を組織的に巡回し、ガイドとして参拝に同行していました
山伏は、頭に頭襟(頭巾、兜巾、ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つスタイルで、袈裟と、篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏います
また、山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持っていました
民話に登場する天狗や烏天狗は、山伏の装束を身に纏っていますよね
女人禁制の修験道地は各地存在しますが、近年は女人の修験を受け入れている寺社仏閣も増加しており、女性山伏も数多く活躍しています



 

山伏の歴史は古く、日本各地に山やそこにある巨石を崇拝対象とした祭祀遺跡があり、山岳信仰は原始時代から続いていたようです
伝来した仏教でも山に入って修行する僧侶らがおり、比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺のような山岳寺院が形成されました
そこから、さらに山中に分け入って修行する僧侶がいました
山伏の祖は飛鳥時代の役小角(役行者)とされることが多いようですが、言語としては平安時代中期の『新猿楽記』に大験者次郎という者を「山臥修行者」と書いているのが山伏(臥)の初見です
大峯などでは、山岳修行者の守り本尊として金剛蔵王菩薩(蔵王権現)が尊崇されました
厳しい修行をする山伏は、常人にはない力を持つと信じられていました
密教僧と同じく加持祈祷を依頼され、九字を切り、印を結び、陀羅尼を唱えました
『宇治拾遺物語』には渡し舟を祈りで呼び戻したとの話が載っています
室町幕府の実力者でありながら魔法の修行に励んだ細川政元は「出家のごとし山伏のごとし」と称されていました(『足利季世記』)
山伏が各地の山を修行して回る場合、宿所・食料は里人や寺院の接待に頼ったそうです
関所の関銭や渡し舟の運賃(舟手・川手)は免除されるのが慣例で、諸方の交通に明るく、「山臥の道」(『吾妻鏡』)といった抜け道もよく心得ていました
このため、山伏が使者やその道案内を務めたり、逃亡者や密使が山伏に偽装したりしたことが鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて度々あり、帯刀も珍しくなかったようです
源義経主従は奥州へ落ち延びる際に山伏に扮していたと伝えられています(『吾妻鏡』『義経記』等)
山麓の寺院などに定住した山伏には、妻帯したり、稚児を囲ったりした者もいました
鎌倉時代以降、山伏の数が増えるにつれ組織化が進み、寺社に寄宿する山伏たちが、所領などを巡る紛争で共同行動を起こすこともありました
山伏を統括する寺院のうち、特に有力となったのは天台宗系本山派と真言宗系当山派が有力です
武家からの介入も増え、江戸時代の慶長18年5月21日には『山伏法度(修験道法度)』が発せられて、本山・当山両派による山伏の統括が法制化されましたが、両派に属しない山伏もいました
明治政府は明治5年、神仏分離令を発します
山伏は真言・天台両宗いずれかに属するか、神官となるか、帰農するかを求められましたが、その後も山で宗教的な修行をする者は絶えず、国東半島(大分県)のように古の山伏修行が復興した地域もあります



 

山伏独特の修験十六道具とは、それぞれ不二の世界、十界、不動明王、母胎などを象徴します
これらを身にまとい行を修めることにより、修験者はその力を身につけることができるとされています
1.頭襟 - 2.鈴懸(篠懸) - 3.結袈裟(不動袈裟) - 4.最多角念珠 - 5.法螺 - 6.斑蓋(檜笠) - 7.錫杖(菩薩錫杖) - 8.笈(箱笈) - 9.肩箱 - 10.金剛杖 - 11.引敷 - 12.脚半 - 13.八目の草鞋 - 14.檜扇 - 15.柴打 - 16.走縄(螺緒) - 17.簠簋扇 - (カンマン着)
以上がその一覧ですが、1.から12.を山伏十二道具、1.から16.までを山伏十六道具というようです
胸に付けられたぼんぼりは「結袈裟の梵天」といいます
山伏は神仏習合の影響が強く残る神社仏閣に所属する僧侶や神職がなることが多いほか、普段は社会人として働く在家の信者が、「講」を組織して修行の時だけ山伏となることも多いようです
山伏の講の多くは真言宗系当山派の醍醐寺か、天台宗系本山派の聖護院のどちらかに所属しています(他に吉野の、教派神道や単立寺院の山伏などどちらにも属さない場合もあります)
羽黒山では毎年9月、希望者が白装束を着て入峰し、断食、滝打ち、火渡り、床堅(座禅)、忍苦の行(南蛮いぶし)などの活動を通して山伏修行を体験できます
山形県の湯殿山では4月から11月までの間、山伏体験ができます


 

一方で法螺貝は、修験十六道具の5番目にあるように山伏のトレードマークとも言えるものです
まず貝としての法螺貝(ほら貝)は、ホラガイ科(旧分類:中腹足目 フジツガイ科)に分類される巻貝の一種です
日本産の巻貝では最大級の種類で、身は食用もされ、貝殻は楽器として使用されています
近縁種にボウシュウボラ(学名 Charonia lampas sauliae)、ナンカイボラ(学名 Charonia sauliae macilenta)があり、流通上は区別されずにホラガイと呼ばれることが多いようです
紀伊半島以南の西太平洋、インド洋に広く分布、日本では、紀伊半島、八丈島以南に分布しています
殻高が40cmを超え、殻径も19cmに達する大型の巻貝
殻は卵円錐形で、上方の螺塔は高く尖り、下方の体層は大きく丸く膨らんでいます
殻の表面には太く低い螺肋があり、褐色、紅色、白色等の三日月から半月状の斑紋が交互に現れてヤマドリの羽のような模様になります
殻口は広く、外唇は丸く反り返って、縁沿いに黒色と白色の畝が交互に並っmでいます
潮間帯下のサンゴ礁や岩礁に生息し、ヒトデ類を好んで食べます
サンゴを食害するオニヒトデを捕食するため「オニヒトデの天敵」とされていますが、摂餌頻度が低く生息数も少ないため駆除方法としての実用化には至っていません



 

次に世界の歴史的に見たほら貝の楽器としての利用を見ていきましょう
ホラガイを加工した吹奏楽器jは、日本、中国(漢族他少数民族)、東南アジア、オセアニアでも見られます
楽器分類法上は、唇の振動で音を出すため金管楽器に分類されています
2021年2月10日、フランス国立科学研究センターは、フランス南西部ピレネー山脈の麓に位置するマルスラ洞窟(英語版)の遺跡から、約1万8000年前のホラガイの一種から作られた笛が発掘されたことを、アメリカの科学雑誌「サイエンス・アドバンシズ(英語版)」に発表しました
この笛は、トゥールーズ自然史博物館(英語版)に長らく儀式用のカップとして所蔵されていたもので、近年の分析の結果、笛として使われていたことがわかったといいます
また、この笛は「世界最古の大型巻貝の笛」の可能性があるとも考えられています
釈迦の鹿野苑での初転法輪の際、帝釈天が右巻きの白い法螺貝を贈ったとの伝説から右巻きの法螺貝(右旋法螺)は縁起物として扱われ、また、鳩摩羅什訳『法華経』に「吹大法螺」などの記述があり、この時代にはすでに楽器として用いられていたことがわかります



 

日本では、貝殻の殻頂を4-5cm削り、口金を石膏等で固定して加工します
日本での使用例は、平安時代から確認でき、12世紀末成立の『梁塵秘抄』の一首に、「山伏の腰につけたる法螺貝のちやうと落ちていと割れ砕けてものを思ふころかな」と記されています
同じく12世紀成立の『今昔物語集』にも、本朝の巻「芋がゆ」の中で、人呼びの丘と呼ばれる小高い塚の上で法螺貝が使用されていた記述があります
現存する中世の法螺貝笛としては、「北条白貝」(大小2つ)があります
16世紀末の小田原征伐の際、降伏した北条氏直が黒田孝高(如水)の仲介に感謝し、贈ったものの一つとされ、福岡市美術館が所蔵しています
家紋としては、京都聖護院の「法螺貝紋」が知られ、「糸輪に法螺貝紋」などがあります
戦国時代には合戦における戦陣の合図や戦意高揚のために、陣貝と呼ばれる法螺貝が用いられていました
上泉信綱伝の、大江家の兵法書を戦国風に改めた兵書『訓閲集』に、戦場における作法が記述されています
元々、軍用の陣笛は、動物の角などを用いていましたが、のちに法螺貝に代わったとされています
近代期の戦闘でも陣貝は用いられ、一例として、明治期の秩父事件において、戸長役場の報告として、「町の東西北三方より暴徒600人計、螺(ホラ)を吹き、鬨の声を発し、押し来たり」と記録されています
新渡戸稲造が聞いた話として、「戦争で用いられる法螺笛は、なるべき傷があるものが選ばれたとされ、その理由として、海底で波とうに打たれ、たたかれ、かしこの岩や石にぶつかり、かん難を重ねた貝が一番良い音を発するゆえ、漁師が取っていた」としていました



 

仏教での使用は古く密教用語では、法螺は、「ホラ」ではなく、「ホウラ」と読みます
如来の説法の声を象徴し、その音を聞けば、罪は消滅し、極楽に往生できると経典に記され、衆生の罪の汚れを消し去り、悟りに導く象徴として法螺が吹かれました
空海が持ち帰ったともされ、灌頂の際には阿闍梨が受者に法螺を授けました
修験道では、「立螺作法(りゅうらさほう)」と呼ばれる実践が修行され、立螺作法には、当山派・本山派などの修験道各派によって流儀を異にし、吹奏の音色は微妙に違うようです
大まかには乙音(低音側)、甲音(高音側)、さらには調べ、半音、当り、揺り、止め(極高音)などを様々に組み合わせて、獅子吼に擬して仏の説法とし、悪魔降伏の威力を発揮するとされ、更には山中を駈ける修験者同士の意思疎通を図る法具として用いられます
軍用の法螺は三巻半の貝が用いられ、山伏の法螺は三巻の貝が用いられました
昭和初期に発表された醍醐寺三宝院当山派本間龍演師の『立螺秘巻』は、その後の修験者、とりわけ吹螺師を修行する者の必須テキストとして評価伝承されています
東大寺二月堂の修二会(お水取り)では、堂内から鬼を追い祓うため、法螺貝が吹き鳴らされます
重要文化財の『二月堂修中練行衆日記』には足利義満が1391年(明徳2年)に二月堂を訪れ、修二会で使われる「尾切」及び「小鷹」という銘の法螺貝の音を楽しんだという記録があります
秋田県の俗信に「山伏が法螺を吹くと雨が降る」というものもあるようです
ほら貝が入手困難な地域では竹法螺と呼ばれる竹製の法螺貝もありました
ホラガイ分布にあるように、東日本では入手しづらかったため、代用品として「竹法螺」が作られ、用いられました
東北を舞台とする落語の『一眼国』では竹法螺が登場します
また、1738年(元文3年)に磐城平藩で起きた磐城平元文一揆(岩城騒動)でも竹法螺が用いられていました
愛媛県南予地方の牛鬼まつりでも、竹法螺が用いられます



 

日本以外の仏教的法螺貝を見てみましょう
チベット語でトゥンカルは「白いホラガイ」の意味です
サンスクリットではシャンカ(śaṅkha)と呼ばれています
ヴィシュヌ神の象徴であり、奉納品で、海での安全を願う魔除けです
ハワイではプ(pu)と呼ばれています
ワイカプ (wai-ka-pu【ホラ貝の(音がする)水】)の語源の一部ともなっています
食材としてのほら貝も調べてみました
内臓の部分を除く身の部分は刺身などの食用とされます
ただし、内臓にテトロドトキシンを蓄積することがあるため注意が必要です
装身具としての利用もあります
シャンカから、バングルやブレスレットなどが作られています
薬としての利用もありました
古代インドの医学書『アーユルヴェーダ』に Shankha bhasma という薬として書かれています
ライムジュースに浸して10-12回焼き、最終的に粉末にします
この粉末にはカルシウム、鉄、マグネシウムが含まれ、制酸薬・整腸剤として機能すると考えられています
栃木県芳賀郡の俗信として「からみみになったら、法螺貝を削り、その粉を耳の中に入れると治る」とされているようです
また、三重県では民間療法として「できものには法螺貝のふたを焼いてつけると吸い出し効果がある」とされるようです



 

さて今回の山伏とほら貝のお話はいかがでしたか

近年の熊による人畜被害が大きな問題になっていますが、かなり前に熊が山伏の法螺貝の音を怖がるという話を聞いたことがあり、今回の話題にしてみました
もともと法螺貝には、山谷の地中に棲み、精気を得て海に入り、その際に山が崩れ洪水が起こるという俗信がありました
ここから「ほら」が意外な大化けをするという意味で用いられ、さらに法螺貝を吹くと遠くまで聞こえる大きな音が鳴るということも加わって、大げさな嘘をつくという意味で「法螺を吹く」「ほら吹き」という言い方がされるようになったようです
また熊がほら貝の音を異様に嫌うようで、山伏たちはもともと山中で出会う猛獣よけのためにほら貝を持っていたそうです
今年の秋は日本中が熊騒動で大変でしたが、じつは十津川では熊被害の報告は一件もありませんでした
(今年春に小辺路で行方不明者が出て熊に襲われたのではないかと思われた事案はありました)
目撃報告すらありませんでしたので、ひょっとして紀伊山地の熊は絶滅してしまったのではないかと逆に心配しています
実際に九州は絶滅してしまったようですし、四国も数頭にまで激減したようで、南から順なら次は紀伊山地の番でもおかしくない状況で、絶滅危惧扱いになっているようです
山伏と言うとどうしても仏教色を強く感じますが、実際には山に籠もって修行を積む行為は仏教伝来のはるか以前から行われていたと思われます
役小角などもそうですし、私はスサノオのような特殊な能力を持っていたと思われる神話の神々たちもまた、何世代か前の自然信仰時代の山伏のような者たちだったのではないかと考えています

熊肉はおいしいので、先代人が狩猟にほら貝を使っていた可能性も考えられます
その時代から熊が法螺貝の音を聞いていたとすれば、恐怖がDNAに刷り込まれているとしてもおかしくないでしょう

このほら貝の重低音を研究していただいて、熊よけに役立てて頂き無駄な殺生をしないで済むようになれば良いと思っています
法螺貝の音を出す機材を作って、棲み分けがうまくいくように設置していただきたいと思います

山の先住者はどう考えても熊の方なんですから
今回のお話はここまで
でわでわまた