旧約聖書 エレミヤ書 9章23節
「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主(しゅ)。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」

「まわりの人の言動にふりまわされないで」
と前回のブログに書きました。

と言っている私が、
実はまわりの人に先入観を持たれているような現状。
自分の言動を誤解されているような・・・
自分の思いはうまく人に伝わりません。

誤解されているのなら、その誤解をといてちゃんと理解してもらわないと・・・
はやくきっちり説明しないと… というふうに考え、良かれと思ってとった行動でさらに深みにはまることも多々。

「理解してもらえた」と思っても、実は相手はさらに反感を感じただけだったり…
それに気づかないのは、自己中心的でノウテンキな自分ばかり・・・

そんな生き方に疲れて、やっと聖書が伝えてくれている「全知全能の愛の神様」に本気で賭けてみるようになってきました。

自分の「良かれ」を主張することを止めます。

「 静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩編 46篇10節 口語訳)

こう神様が言っておられますから、とりあえず「自己主張」を止め、静まって様子をみます。

すると、まったく関係のない話から人間関係のギクシャクが解かれるようなことが起こりました。
すると、「言わないと!」と思っていたことはそんなに意地を張って伝えるべきことでもなかったように思えてきます。

お互い自分自身のこともよく分かっていない不完全な存在。

「人の言うことをいちいち気にするな。
 そうすれば、僕(しもべ)があなたを呪っても、聞き流していられる。
 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、
 あなたの心はよく知っているはずだ。」(7章21~22節)

前回も紹介したこの聖書の言葉の通りだと思うのです。

あらゆる命を創造して導いておられる神様は、あらゆる命が安心して感謝して生きられるように導いて下さっています。
神様のジャマをするのは、人の自己中心的な思い。
たとえそれが正論であっても、「正論」が相手の心を解きほぐすとは限りません。
というより、反発されることの方が多いかも。

今、私は毎日新たに「信じること」に「賭け」、「静まって待って」実際に素晴らしい神様を体験しています。

自己中心的に生きて50年。
いやというほど「自己中心」のむなしさを体験してきました。
もう十分。

ご一緒に素晴らしい神様に賭け、あらゆる命を大切にする人生を生かしていただきましょう。

一歩ずつ、確かめながら。