旧約聖書 ホセア書 6章1~3節
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」

預言者ホセアのことば。

彼は、命を創造し守り導いて下さっている神様から心が離れていっている民に呼びかけます。

「さあ、我々は主(しゅ)のもとに帰ろう。」

「主(しゅ)」とは、「導いてくださっている方」のこと。
自分たちが「この方に従って生きていく」と言える方のこと。

人々は、「神様はいる」と信じてはいても、「自分たちを導いて下さっている方:主」だと思えなくなくなっています。

ホセアは改めて呼びかけます。

「我々は主のもとに帰ろう」

神様は愛、命そのもの。

人は自己中心的な思いを優先してこの方を離れていきますが、離れると「生きる意味」がぼやけます。
そして、みんな自己中心的にしか生きられなくなっていきます。
まわりの命や自分自身さえも傷つけていきます。
希望の見えない混乱の中にはまり込んでしまいます。

イスラエルの民は、神様がどんな方だったのかさえ分からなくなっています。

ホセアは呼びかけます。

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」

ホセアは神様の想いを受け取っていました。

冒頭の聖書の箇所の前にこのように書かれています。

「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」(5章15節)

人は、問題にぶつからなければナカナカ神様を慕い求めません。

「・・・。どうしてですか?! なぜなんですか?!」
「・・・してください! お願いします!」
というような祈りは得意です。

でも、「ありがとうございます」の言葉をナカナカ神様に伝えません。
まるで与えられていることが「当たりまえ」のように考えて。

でも、息ができるのも、体が動かせるのも、考えられるのも、感じられるのも、みんなキセキ。

一緒にいてくれる誰かがいることも。

決して「当たりまえ」ではありません。

神様は、人が神様を求め、神様と親しく生きることを願っておられます。

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。
 主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩編 147篇10~11節)

「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、
 神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア書 6章6節)

ホセアが告げてくれた通り、神様は必ずご自分を現わしてくださいます。

心を澄ませましょう。

神様は約束を必ず果たしてくださいます。

「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。
 あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
 分別のない馬やらばのようにふるまうな。
 それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。
 そのようなものをあなたに近づけるな。
 神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
 すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(詩編 第32篇8~11節)