旧約聖書 詩編 第131篇1~3節
「主よ、わたしの心は驕(おご)っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」


先日、車で死ぬ思いをしました。
職員の方とアルバイトの私の二人で北見方面での河川調査に向かっていました。
早朝に旭川をたって石北峠を越えて北見方面に向かっていました。
層雲峡から石北峠にかけて霧が深くうっすらと積雪していました。
しかし、峠のトンネルを抜けるとトンネルの先は晴れていて道路も乾いていました。
ちょっと安心して山道を下っていました。
ところが、右の大きなカーブを抜けた先に危険が待ち受けていました。
ちょうど森の陰になる道路の所がブラックアイスバーンになっていたのです。
前夜の降雨か霧のせいで路面は濡れていてそれが凍っていたのです。
カーブを抜けようとした車は滑り始め、車は道路に対して少し左向いた形で時速60キロくらいで滑っていきました。
私の座っていた助手席がまっすぐに路肩の電柱に向かっていきました。
電信柱が私の前にどんどん迫ってきました。
バンタイプの車ですからエンジンは前になく、電柱にぶつかったら車はつぶれて私もつぶされるでしょう。

「ああ、ここで自分は死ぬんだ。時が来たんだ。」と思いました。

ところが、電柱に当たると思った瞬間、車が道路に対して平行に向きを変えたのです。
右の前輪が、路肩の5センチほど盛り上がった土のところに引っかかったのです。
私の前に迫っていた電柱は私の左ぎりぎりをすり抜け、右前輪が引っかかったせいで遠心力が働き、振られた左後部がその電柱にぶつかりました。
かなりの衝撃と同時にガラスが割れました。
しかし、そのせいで少しブレーキもかかり車は左に大きく傾いたまま路肩を進んでいきました。
車の下の部分を土でこすりながら進みました。
土がブレーキになり、数十メートル先で止まることができました。

路肩の土の部分と言っても、そんなに盛り上がっているわけではありませんし、そこも当然濡れていました。
後輪は左も右もそれを越えて左後部を電信柱にぶつけることになりましたから、右前輪が土の部分に引っかかったのは奇跡だと思いました。

まだ時は来てなかった。
生かされたんだ・・・ と思いました。

これからも素晴らしい神様がおられることを伝えていくために。

私の知っている神様は、全知全能の方。
すべてのものを創造し、命を与えて保ち導いておられる方。
無限の愛とゆるしの方。
人が神様と命を愛して生きるように導いて下さっていますが、なかなかどうして、自己中心的な思いで生きようとする人間は神様を離れて傷つけ合ってばかり…

それでも絶対に人を見捨てない神様は、イエス・キリストをつかわして不滅の“真実の愛”を現わしてくださいました。

人は、神様の宝物として愛し合って生きることができます。
どれほど失敗を重ねても!

あなたも私も神様の宝物。

どこでどんな状態に巻き込まれていても、そこから救い出されます。

ポイントは自分一人で生きようとしないこと。
命の責任者である神様に信頼し、神様に任せて生きる。

難しくはありません。

冒頭の聖書の箇所にどうやればいいのか書かれています。

「わたしは魂を沈黙させます。
 わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。
 イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」

「イスラエル」の部分に自分の名前を入れて下さい。

そして、母の胸に抱かれている幼子のように、なにがどうなろうと、「信頼して」じぶんを任せてしまう。

全知全能の愛の方が必ず守り導いて下さいます。

ちなみに、事故の衝撃で私は左の腰と右の脇と右ひざを少しばかり痛めたのですが、翌日は私が整体(十字式)に行く日で、事情を話して念入りに治療してもらったらほとんど回復できました。

それからも毎日いろんな危険や問題が起こっています。
でも、今日改めて冒頭の聖書の箇所を読み、神様に任せて進むことを再確認。

一歩ずつ、一歩ずつ。
明日は来ないかもしれませんから、思いわずらうのはやめ、与えられた環境で感謝して一歩ずつ進んいきましょう。
丁寧に一歩ずつ。

失敗したら何度でも顔をあげ直して。