新約聖書 コリントの信徒への手紙2 3章16~18節
「しかし、主の方に向き直れば、覆(おお)いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

イエス・キリストは、「神様がどんな方で何を求めておられるのか」を知らせて下さるために来られた方。

神様は無限無条件の愛に満ち溢れた方。
すべてのものを創造された方。
創造したあらゆる命を愛し導いておられる方。
人と一緒に生きながら救い続けて下さる方。

神様が人を創造してくださいました。
そして、それぞれの命が神様(愛)を愛し、神様(愛)と一緒に生きられるように導いて下さっています。

一方、人間は、与えられている自由を自己中心的な思いの実現の方にばかり用いてきました。
神様(愛)を離れ、自己中心的な思いばかり求めてきました。
その結果、争いが起こり、戦争が起こり、無限に傷つけ合う泥沼にはまり込んでしまったのです。
「ダメ出し」のあふれている世界。

その典型のような家庭で育った私は、「無限無条件の愛・受け入れ・ゆるし」にあこがれる部分が心のどこかいありつつ、そんなものは「ダメ、良くない」と思いこんでいました。

それが、クリスチャンに出会い、イエス・キリストのブレることのない命がけのメッセージ:
「あなたは神様の宝。だから、宝物として生きよ。
 私は永遠にあなたと一緒に生きてあなたを愛し支える。
 何度失敗しても、敗北しても、何度でも顔をあげ直して宝物として生き直し続けなさい。
 あなたは宝物なのだから。」
を知ることができました。

この神様の永遠にブレることのない愛のメッセージは、自己中心の泥沼から私を救い出してきてくれました。
一歩ずつ、一歩ずつ。

ここしばらく、強烈な「ダメ出し」の連続攻撃を受けてかなりダメージを受けていました。
毎朝、全知全能の神様と、それを命がけで現わしてくださったイエス・キリスト、そして私を個人的に導いて下さるためにいつも共にいて下さる聖霊(神様の霊)に助けと導きを祈ってきました。

すると、問題の真っ只中で小さな救いの出来事が起こされてきました。

縛り付けられていた『問題』から、心がすっとイエス・キリストのもとに引き出される感じです。

毎日問題に直面しつつ、少しずつ少しずつ救われている感じでした。

そしてつい先日、朝読んだ聖書にこう書かれていました。

「立ちなさい。主がシセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」(士師記4章14節)

自分が出かける前に神様が先立って出て行ってくださっている…

とても励まされました。
正直半信半疑ながらも、やはり、神様の言葉を信じる(賭ける)ことを選びました。
すると、事態は変わっていませんが、心が問題から救い出されているのを感じました。

覆いかぶさって来ていた重い空気から解放されていました。

「ダメ出し」の世界から「無限無条件の愛・ゆるし・うけいれ」の国に心が移されていました。

「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。」(3章9節)

神様は永遠に言って下さっています。

「あなたは私の宝。」

ひどい「ダメ出し」の世界で苦しんできた人たちの話を聞く機会が会社の中で不思議な形で与えられました。

神様(愛)の国が静かに広がって行くのを感じました。

「ダメ出し」は、人間の作り出した世界。
神様の「無限・無条件の愛・ゆるし・受け入れ」の世界に救い出されていきましょう。

主イエス・キリストに心を向ければ、神様の霊が確かな御手で必ず力強く導いて下さいます。

「ダメ出し」の世界にとらわれている必要はありません。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

救われ、自由にされ続けていきましょう。