新約聖書 ルカによる福音書 1章5~7節
「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」

イエス・キリストは、30歳位の時3年ほど人々に神様のメッセージを伝える働きをしました。
わずか3年ほどだったのにその影響力はすさまじいもので、当局がリーダーのイエスを十字架にはりつけにして殺しても途絶えることはありませんでした。

復活したイエスから赦(ゆる)しと受け入れと励ましを受けた弟子たちは、どんな迫害にあってもイエスと同じように神様のメッセージを届け続けたのです。
各地に信徒たちの群れが成長していました。

イエス・キリストが伝えたメッセージ、「神の国の福音(ふくいん:うれしい知らせ)」を書物にまとめようとする者たちが出てきました。

ルカという人物も書くことを思い立ちました。
すでに完成して流布していた『マルコのよる福音書』を手本にしながら、自分が集めたイエス・キリストに関する言葉や奇跡の伝承を加えてまとめていきました。
そして生まれたのが『ルカによる福音書』。

ルカは、「神の国の福音」とはどんなものなのか書いています。

まず、祭司ザカリアと妻エリサベトに起こった出来事から。

ザカリアは、当時エルサレムにあった神殿において人々のために神様のゆるしと祝福を祈る「祭司」として働いていました。

「祭司」=神様に近い
だから、誠実に歩んでいたら、神様の祝福も多い・・・ はず・・・

ところが、ところが、ザカリア、エリサベト夫妻には大きな苦しみがありました。

子供ができないまま年をとってしまっていたのです。

「祭司」は世襲で継がれていく仕事でした。
「仕事」です。

いつも神様と人の和解のために「ささげモノをする」働きをしていたので、「神様に近い」とは言えるでしょう。
だからと言って、心が神様と通々・・・ ということにはなりません。

「儀式だけこなす」ということは起こり得ます。

有名な祭司の息子たちが神様を全く畏れも期待も信じもしていない… という実例が聖書に記録されています。

「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。この祭司たちは、人々に対して次のように行った。だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。」(サムエル記上 2章12~14節)

こうなると、祭司が人々の信仰のジャマをしています。

もちろん、“誠実な”祭司がたくさんいました。
ザカリアは“誠実な”祭司の一人でした。

決められた通りのことを真面目にこなしていました。

しかし、子どもがなかった・・・

当時「こどもがないこと」はつらいことでした。

なにせ、神様の祝福の言葉は「産めよ、増えよ」ですから。

真面目なザカリア夫妻に表立って何かを言う人はいなかったかもしれませんが、本人たちの心は決して穏やかではなかったことでしょう。
なが~~~~い間。

そんなこんなで時間は過ぎていき、二人とも年寄りになり、もう子供をもつことなんて考えなくなっていました。
心の痛みはそのままに、ただ誠実に仕事をしていたその時…

聖書に書かれている神様の約束が現わされます。

「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザヤ書66章2節)

ザカリアの信仰をしっかり神様は見ておられました。そして、それを現わされたのです。

ジタバタではあっても、全知全能の愛の神様を信じて生きようとして来られたあなたのことを、神様はすべてご存知です。

あなたにも、神様の業が現されます。

続きは明日。