新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章15節
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」


私が毎日読んでいる世界のクリスチャンの信仰の投稿記事(Upper Room Daily Devotional)から翻訳して載せます。

「9年前に最初の子供メリナを抱いた時、初めて私は自分の人生に欠けていたものがわかりました。あの病室でメリナを抱きながら、神様が私に望んでおられた『場所』にいると感じました。今や素敵な4人の娘と1人の息子を持つ身となりましたが、彼らの中に自分を見つけることができます。息子のデイビッドの防衛本能に、メリナの創造性とユーモアのセンスに、セレナの頑固さに、エリーの抱かれ好きに、フェイスの愚かしいところに。でも、外で私たちが一緒にいるのを見かける人は、不思議そうな視線を向けてきます。子供たちがみんなラテン系なのに、私は違うから。子供たちはみんな養子なのです。
私が子供たちを見る時、私には私の子供のメリナ、エリー、セレナ、そしてフェイスが見えています。私の人生の喜びです。時々、わたしが子供を見るように神様が私たち一人一人を見てくれていることを思ってうれしくなります。神様は私たちを喜んでくれています。肉親の父親との関係がどんなものであったとしても、神様が真実の父であるという事実は、安全、愛、導き、助け、勇気、そして帰れる場所を私たちに約束してくれています。使徒パウロは、「アバ、父」(「アバ」は幼子が安心して父親を呼ぶときの呼び方)ということばを使って、神様との間に持てる個人的な愛の関係を示してくれています。『神様の子』、それが私たちのアイデンティティーであり、戻っていけるところです。」

私の父は、わたしが必要としている時に「そこにいてくれる」人ではありませんでした。
仕事をしているか、飲んでいるか、マージャンしているか…
家にいるときは、母親とケンカしていました。
そして飲んで酔っ払っていました。
そんな記憶ばかり・・・

母親も短気で気が強くて…

安心して帰れる場所はありませんでした。

そんな自分は、結婚して妻や子供たちが「安心して帰れない」場所になってしまいました。
「いない方がみんなが安心していられる」存在になってしまいました。

そして家族が崩壊していた時、神様からの声が聞こえました。

「おまえのせいだ」

厳しい言葉だと思われるかもしれませんが、その時の私にはこう響きました。

「あなたもあなたの家族もみんな私の宝物。
 なのに、みんな平安や感謝の内にではなく、恐れと不安の中で生きている。
 それは、おまえのせいだ。
 方向転換せよ。」

この「方向転換」は、自分にとっては、「自分のことばかり分からせようとすること」をやめて「まわりの一人一人の心を聞くこと」への「方向転換」でした。

そして10年。
現在57歳。

多少変わって来れたかもしれません。
でも、「みんなが安心して帰れる存在」からは程遠い気がします。

神様がそんな存在だと言われても、安心して帰っていった体験のない私にはどうしても戻り切れません。

「疑い」がある…

それなのに、長い間牧師としても働きました。
どうして働けたのか?

それは、そんな神様がいることをもっと体験して確信したかったから。
イエス・キリストの命がけのメッセージに賭けて生きて、本当に助け導いてくれる愛の神様を体験し続けていきたかったから。

今、色んな問題があってどう進んでいいのか分からずに神様に祈りまくっています。
一歩ずつ導いて下さる神様がいるはず…

確かに導かれています。

まわりの一緒に生きてくれている人たちとぶつかりながらジタバタと・・・

試されると、仮死状態になっていた自己中心的な自分が息を吹き返してきてどうにも・・・

自分が嫌になってしまいます。
そんな時、小さな細い声がやはり聞こえてくるのです。

「お前は、わたしの宝もの。
 だから、顔を上げ直せ!
 もう一度私を信じて立ち上げれ!
 宝物として生きられる!
 私が助け導いている!
 恐れるな!
 たじろぐな!
 おまえの求めていた『大切な人たちが帰れる場所』に、なっていけ!
 そんな父親になりたいと願うおまえの想いこそ、わたしがすべての人に対して変わることなく抱いてきた想い。
 生きよ!
 私の宝として!」

神様、あなたがそんな存在であり続けて下さっていることを感謝します。
私もそうならせてください。