新約聖書 マタイによる福音書 16章24~25節
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

「十字架を背負ってついて行く」ことについて一昨日から考えてきました。

イエスの時代、十字架刑はローマ支配地域における最悪の処刑方法。
ムチ打たれて皮膚も骨もボロボロにされた後、裸で十字架にはりつけにされ、生きる力が体から失われて死ぬのを待つ刑。

体の痛みや苦しみだけではありません。
手足を十字架にくぎ付けにされていますから、身動きはとれません。
自分のみじめな姿を人々にさらされたままどうすることもできません。
人々が見ている中で、だんだん弱りはて、やがて死にます・・・

とても残酷な処刑方法。

そのため、「十字架」という言葉はイエスの時代のあらゆる人にはマイナスのイメージしかありません。

最悪の犯罪人として処刑される方法。

それ以外の解釈はありません。

昨日、「 日本流にいえば、イエスは弟子たちにこう言ったのです。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分のために絞首刑のロープを首にかけて、わたしに従いなさい。』」と書きました。

イエスの言葉を聞いた弟子たちにはそんな意味しか伝わりません。
全く理解できなかったことでしょう。

ただ、イエスは続けてこう言われました。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

誰でも「自分を救いたい」と思います。
どんな時でもそうでしょう。

人は自己中心的にしか生きられません。
思い違いや勘違い、間違い、思い込みや失敗を避けられません。
集団で思い違いをすることもたくさんあります。
時には意識的に思いこんで誰かを傷つけることだってあります。

「誤解され、先入観で判断され、理解してもらえず、嫌われ、勝手に憎まれ、無実の罪なのに『殺すしかない』とみんなから言われて殺されることだってあります。

後で「あれは間違いでした。ごめんなさい」と言っても失われた命は戻ってきません。

イエス・キリストの「死」はそんな死でした。

神様の無限無条件の愛をあらゆる人に伝えるために特別につかわされた方。
たくさんの人がそのメッセージにとらえられてイエスに従っていきました。

しかし、最終的にはあらゆる人から、弟子たちからさえ見捨てられて、十字架上でミジメに殺されました。
無実なのに、最悪の犯罪者、神様に逆らう者と決めつけられて…

こんな悲しい死はありません。

しかし、聖書を読む者は、ただ「ミジメ」で終わらない何かを感じさせられます。

それは、最悪のミジメさを感じているはずなのに、イエスが神様への、同時に、人への愛を失わなかったから。

イエスは自分を殺そうとしている人たち、見捨てて逃げてしまった人たちを思いながらこう祈られました。

「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書 23章34節)

父(神様)への想いも人への想いも全くブレていません。

みんなイエスの宝物。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とイエスは言われました。

イエスの死は見かけは最悪でミジメの極致なのに、それで終わらせないものがあるのです。

そして、それはイエスが復活させられた時に明らかにされます。

復活の朝、イエスは全くブレることのなかった神様の無限無条件の愛にあふれて、希望と喜びに満ちて起き上がられました。

今、あらゆる命を救いへと導いておられます。

神様(永遠にブレることのない無限無条件の愛)と、そのために命を賭けられたイエスへの想いを胸に(イエスのために)生きるなら、ミジメで終わる命は一つもありません。

あなたも、あなたのまわりの人もみんな、神様の宝物。

どんなマイナスの出来事が起こってきた(十字架を背負うことになった)としても、この想いを胸に何度でも顔を上げて歩んでいきましょう。

みんな必ず救われますから!
復活してイエス・キリストが一緒に生きて導いて下さっていますから!
愛の全能者、神様の想いはそこにしかありませんから!