新約聖書 マルコによる福音書 12章1節
「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。」

人が神様の宝物として神様と一緒に一歩ずつ感謝して歩んで行けるようにするのが祭司や宗教指導者のつとめ。
しかし、2000年前のイスラエルでは、宗教指導者たちは人々をルールで縛り付けるようなことしかしていませんでした。

神様は、人々に本来の生き方を知らせるため、イエス・キリストをつかわしてくださいました。
イエス・キリストは指導者たちにも語りかけました。
多くはたとえ話の形で語りました。
聞くものが自分でしっかり考え、分からないことは神様や仲間に聞きながら、本来の道を一歩ずつ進んでいくため。

冒頭の一文には以下のたとえ話が続きます。
読んでみてください。

「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』」(2~9節)

さて、次は、「ぶどう園」の部分に自分の名前を入れて読み直してみてください。

どうでしたか?

神様は、人を神様の宝物として創造されました。
そして、人が宝物として生きることを願い、助け導き続けて下さっています。

しかし、それをジャマするものが入り込んでしまいました。
それらは、人が宝物として生きられないようにジャマしてきます。

「神様と一緒に宝物として生きる」ってどんな生き方でしょう?

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節)

人間は、本来、そのように生きられるように創造されています。
しかし、ジャマするものが入り込んできました。

それらが人間を誘い込むのは・・・

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(19~21節)

思い当たります?

安心してください。
ブドウ園の主人(神様)は、あなたを誘い込んでいる『力』を滅ぼされます。

注意してください。
あなたを誘い込んでいるのは『悪しき力』であって、人ではありません。

どんなにひどいように見えても、人はすべて神様の宝物です。
『悪しき力』が取り除かれれば、みんな宝物として生きられます!

イエス・キリストは命がけでその道を示してくださいました。

意固地にならず、心を開いて神様の細く小さな愛の声に聞き従いましょう。

宝物として実を結ぶようにされていきます。

神様、よろしくお願いします。