新約聖書 使徒言行録 22章1~8節
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。・・・ わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。」

使徒パウロ(サウロ)が自分がどのようにイエスを『キリスト:神様がすべての人を救うためにつかわしてくださった特別な方』と信じるようになったのか説明している箇所。

「わたしはこの道を迫害し…」と言っています。

「この道」とは、「イエスのメッセージを信じてイエスに従うこと」。

パウロは「信じる者たち」を「迫害」していました。

それこそ信じる者をすべて迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、パウロは復活したイエスに会ったのです。

イエスはパウロに言いました。

「なぜ、わたしを迫害するのか?」

パウロが「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレ(出身)のイエスである」と答えられました。

この「迫害する」という言葉ですが、原語のギリシア語は別の意味で使われることもあります。
パウロ自信が以下のように言っている箇所があります。

「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ローマの信徒への手紙 14章18~19節)

「追い求めよう」と訳されているギリシア語は「迫害する」と訳されている言葉と同じなのです。

神様のために正しいことを「追い求めよう」と固く心に誓って突き進んでいたパウロは、実は、神様(愛:イエス・キリスト)を「迫害する」ことを続けていたのです。

「良かれ」を「追い求める」ことは、時として相手を「迫害する」ことになりかねません。
そうなっていることがとても多いような…

あなたのためを思って・・・
あなたためのためだと思うから・・・
ためになると思うから~してやってるのに・・・

などなど。

それが「迫害する」ことになっていたことを思い知らされたパウロは180度方向転換しました。

私も「迫害していた」ことを思い知らされたので、方向転換中です。
一歩ずつ、一歩ずつ。

「自分は正しい」という『思いこみ』から解放されたいものです。

神様だけが本当に正しい道(愛)をご存知ですので、「思いこんでいるかな・・・」と気づかされたら、その思いをいったん離れ、「イエス様(無限無条件の愛)だったらどうされますか?」と聞きながら進んでいきましょう。

“神様:愛”をいつも追い求めていきましょう。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」(ヨハネの手紙1 3章11節)