旧約聖書 民数記23章8節
「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう。主(しゅ)がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう。」


イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷状態にありました。
神様は彼らをその苦しみから救い出し、ご自分がどんな方なのかこの民を通してすべての人に現すことにされました。

エジプトを出た民は一歩ずつ導かれ、現在の地に連れて来られました。
その旅路は決してスムーズなものではありませんでした。

唯一絶対の全知全能の神。
正しい方であり、同時に無限の愛とゆるしと励ましの方。

この方と共に進むとき、イスラエルの民は祝福されました。
一方で、民は「神様(愛)に聞きながら歩む」という“まどろっこしい”ことを好まず、自分の思いを優先して突き進むことが何度も何度もありました。
そのたびに民は混乱しました。
神様は、そのたびに彼らをそこから救い出し続けてこられました。

民は少しずつ少しずつ神様と一緒に生きることを学んでいきました。

そうやってカナンの地まで来た時、彼らを見たモアブの王は恐れ、バラムという預言者を招きます。
そして宿営しているイスラエルの民を見下ろせる高い山に連れて行くと、バラムにイスラエルの民を呪うように求めました。

バラムはモアブの王に、「いくらお金を積まれても、わたしは神が告げられることだけを告げる」と言っていました。

実は、その前に何も起こっていなければバラムもお金にひかれてイスラエルの民を呪ったかもしれません。
しかし、ここに来る前にバラムは一つの出来事を通して真実の神様の権威を思い知らされていました。
それは明日のメッセージでお伝えします。

ともかく、バラムはただ神様の告げられることを告げるしかありませんでした。
そしてバラムが告げたのが冒頭の聖書の言葉。

「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう。主(しゅ)がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう。」

モアブの王がいくら呪ってほしくても、神様がイスラエルの民を呪っておられないのです。
バラムは呪うことはできません。
神がののしらないものを、ののしることもできません。

この神様の想いをあらゆる人に伝えるためにイエス・キリストが来られました。
そして、命がけで神様のメッセージを届けて下さいました。

無実の罪でリンチを受け、十字架にはりつけにされて命が終わろうとする時、最後の力を振り絞ってイエスは神様に告げられました。

「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書 23章34節)

「赦し」は、こちらにその理由がないにもかかわらず、一方的に罪をゆるされること。

イエス・キリストは自分を傷つけ殺そうとしている人を呪いませんでした。
「赦し」を祈りました。

イエスの祈りが神様の想いであることを、神様はイエスを復活させて全地に永遠に宣言されました。

神様(愛)を拒否し、逆らい、自分やまわりの人を傷つけてしまう人を、イエス・キリストは呪いませんでした。

イエスが呪わなかったものを、誰も呪うことはできません。
イエスがののしらないものを、だれもののしることはできません。

人は実に弱く罪深い存在。
しかし、神様のかけがえのない宝物。

神の「赦し」と無限無条件の愛によってのみ救われ、神様の宝物として生きることができます。

お互いのために祈り、ゆるし、支え励まし合って進んでいきましょう。

それが神様の想い。
全知全能の神様の権威と力は、そこに進む私たちを必ず守り導いて下さいます。