旧約聖書 エゼキエル書 36章25~27節
「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

人はすべて神様の宝物。
でも、育った環境や様々な要因で傷や泥がついてしまいます。
自分やまわりの命を宝物として大切にできなくなってしまう…

気持ちはあっても、結果は気持ちとは裏腹に傷つけ合うことに…

人は神様(無限無条件の愛)と共に生きてこそ、宝物としてのアイデンティティーがしっかりと形成されていきます。
しかし、人は神様と一緒に生きることよりも自分の思い(考え、感情など)によって生きようとします。
これを「罪」と言います。

神様(無限無条件の愛)を離れると、人は「限界のある条件付きの」愛でしか人を受け入れられなくなります。
自分自身も。

神様〔無限無条件の愛)を信じられなくなっている人間を救うため、イエス・キリストが来られました。
イエス・キリストは、その生きざまと死にざまを通して神様(無限無条件の愛)を現わしてくださいました。
自分を拒絶し、傷つけ、見放し、見捨て、命を奪おうとする人たちさえ決して見放さずに愛し抜いて亡くなりました。

この方に触れる時、人は心を揺さぶられます。
居心地の良い「自己中心」の世界から押し出されます。

人の霊は真実の愛にどんどん引き寄せられます。
一方で、慣れ親しんだ「自己中心」の思いはそれを拒絶しようとします。
「自己中心」の力はとても強いので敗北しそうになります。

人が自分の力で戦うと負けます。

しかし、神様の霊(聖霊)が一緒に生きて助けてくれます。
聖霊に助けを求めながら進むと、勝利していけます。

「石の心を取り除き、肉の心を与える」という神様の約束の通り。

聖霊は、人間が自分の限界を認め、神様の助けなしには一歩も進めないことを自覚するところから力強く助け導いて下さいます。

自分の限界を思い知らされることは、すばらしいこと!

そこからが信仰の出番。
神様が主導権を取って助け導いて下さいます。

弱さ、限界、無力さを思い知らされたなら、喜びましょう。

全知全能の神様の救いが始まります!

宝物のあなたとあなたのまわりの大切な人たちのために。