(その1から つづき)

牧師として教会でどれだけ聖書のメッセージを伝え、みんなに「What would Jesus do? イエス様だったらどうされるかを考えて行動しましょう」とか言ってても家族には意味がないわけです。
自分がそれをしていないのですから。
情けないことに、それに自分が気づいていないのです。

「思い込み」は実に怖い病気…

今、自分の心がかたくなになる(別の言い方をすると「腹が立った」)時、神様に「何か思いこんでますか?」と祈るようにしています。
「祈らされている」と言った方がいいですね。

「思いこんでいる」ことに自分で気づくことはなかなかできません。
ただ「教えて下さい」と祈って進みます。
祈れないこともよくあります。

ポイントは、とりあえず今までなら「していた反応」を「しないで待っている」ということです。
待てないで反応してしまうこともありますが、待てる時も増えて来ました。

「待っている間」も今までのパターンの「思い込み」が色々と浮かんできます。
「~だと思ってるんじゃないか?」
「~は誤解だからきちんと言っておいた方がいいのではないか」
単純に「くそ~~~ッ」とか…

でも、「行動を起こさないで待つ」のです。

すると「結果」が違ってきています。

相手の行動について思いこんでいたことが分かったり、分からなくても「ま、いっか」って思えたり…
いずれにしても「自分も相当消耗してしまうバトル」を避けられるようになってきました。

「何か思いこんでないですか?」

聞きながら一歩づつ行きます。
神様が私を宝物としてきれいにしてくれている道のようですから。