(その1から つづき)

パウロは続けて言っています。
「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」(7節)

こちらのことを自分のことのように考えて助けてくれる人。
支えてくれた人…
そんな人のためになら死んでもいいと考える人もいるかも。
実際に実行するかどうかはその時になってみないと分かりませんが…

いずれにしても、誰かのために命を捨てるということは大変なことです。
相手が「罪人」なら、全く考えられないことです。

聖書では、「罪」は「神様を離れて自己チュウに生きること」を指します。
うそ、盗み、殺人、そのほかどんな罪にしても、「神様を離れている」ことが原因です。
「神様を離れて自己チュウに生きている人」を「罪人」と言います。
みんな罪人です。

ところが、イエス・キリストは、神を離れて自己チュウに生き、的はずれな行動の連続で自分やまわりの人を傷つけている「罪人」のために命を捨てられました。

イエス・キリストは、人を表面的な姿では見られません。
一人ひとりの人を神様の宝物として見られます。

現在ジタバタ傷つけ合っているのは愛を知らないからだということを知っておられます。
だから命がけで愛を伝え続けて下さっています。

無視しても、拒否しても、「あなたは神の宝物。宝物として愛され、宝物として命を大切にして生きなさい」とくりかえしくりかえし語り続けて下さっています。

失敗や間違いを繰り返しても、何度でも、そばで言ってくれています。
「あなたは神の宝物。愛されるために生きている」

神の子が命を捨てても惜しくない相手。
それがあなたです。

いつか正しく生きられるから、いつか罪を犯さなくなるから受け入れられているのではありません。
今のあなたが宝物なのです。
今あなたがどんな状態で、どんなに醜いことをしているとしても、今のあなたのためにイエス・キリストは喜んで命を捨てられます。

あなたはとことん宝物なのです。