新約聖書 ローマの信徒への手紙二 5章21節
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(口語訳聖書)

「罪」は、「まとはずれ」という意味です。
「まとはずれ」の「まと」は、矢を射る時の「まと(的)」のこと。
「矢が違った方向に飛んでいってしまっている」ことを「まとはずれ」といいます。
冒頭の聖書の箇所を読みかえると次のようになります。

「命を創造された方は、まとはずれに生きているいるわたしたちのために、まとはずれな生き方を知らない方(神様の創造された命をいつも大切にする方:イエス)を「まとはずれ」にされた。それは、わたしたちが、彼によって神様に向き直るためです」

神様はイエスという方を通して神の愛をあらわされました。
どこで何をしていようとも、どんな状態にあろうとも、その人をそのまま受け入れられました。

ところが、「あなたが宝物」というメッセージは、「今の自分」が、「まわりの人」が、「ダメ」で「不十分」で「きらい」で「受け入れられない」人たちの心を混乱させました。
そして、人々は今まで慣らされてきたものの考え方の方を選び、イエスのメッセージを拒否しました。
「イエス」の方が「まとはずれ」で「まちがっている」と決めつけ、つかまえて殺してしまったのです。

それこそ「まとはずれ」の中でも最悪の「まとはずれ」な決断をしたわけです。

ところが、ところが、神様は最悪の選択をした人々を愛し、受け入れ続けられるのです。
殺されたイエス・キリストは復活させられ、メッセージを拒否した人たちを受け入れ、あらためてメッセージを届けられました。

「そのあなたが神の宝物。宝物として生きよ」

(その2に つづく)