新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~3節
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。

イエス・キリストが神のメッセージを伝えて旅をしている時、道端に生まれつき目の見えない人がいました。
この人を見かけた弟子たちの心に疑問が起こりました。

「この人が目が見えない状態で生まれてきたのはどうしてだろう?」

自分たちが伝えられてきた神様のメッセージは、「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(エゼキエル書18章20節)です。
それなら「生まれつき目が見えない」のは、本人の罪のせいだということになります。
生まれる前に罪をおかすことなんてあるのでしょうか?
弟子たちはイエス・キリストに尋ねました。

「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰のせいですか? 本人が罪深いからですか? 親ですか?」

イエスは答えられました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現われるためである」

そして、誰にも理解できない行動をとられます。
「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム-遣わされた者』という意味-に行って洗いなさい』と言われた」(7節)。

(その2に つづく)