(その1から つづき)
仕事を休めば誰が養ってくれるのか? という問いを聞きます。
「礼拝」は、この問いに逆に問いかける行為です。
働くための健康、力、能力、環境、仕事そのもの、人間関係・・・
自分の力ではどうにもならないたくさんのものが整えられているからこそ、働いていられるではないか・・・
自分の力で生きられているのではないこと、生かされていることを認めることが礼拝です。
神様は一つ一つの命を愛し導き続けておられます。
休みはありません。
ぶれることのない愛のメッセージがいつも発信されています。
イエスキリストは、一つの命を大切にするという仕事を休むことはありませんでした。
神様の愛に休みはありません。
今日は13日の金曜日です。
たくさんの人が迷信にびくびくしています。
仮にイエスキリストが殺されたことを思うと言うなら、その意味を確認しましょう。
イエスキリストが殺されたのは、神様の愛を受け入れようとしない人間の罪のためです。
自分を傷つけ、ボロボロにし、最後にリンチで殺してしまう人たちのためにイエス様は祈られました。
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
イエスキリストを通して発せられている神様のメッセージは、今日もまったくぶれていません。
「あなたはわたしのたからもの」