10月に入りさわやかな秋晴れの日が続く絶好の行楽日和、皆さまどうお過ごしでしょうか![]()
さて、みなさんは、国道141号線の塩川沿いで、畑や住宅地の中の石積みに気づいたことはありますか?
畑の石積みに紛れて分かりにくいのですが、これらはかつて洪水から地域を守るためにつくられた堤防です。
柳原神社前にある水田のなかの堤防
今回は、塩川沿いに残る堤防群について、古い地形図や明治時代の史料を手がかりにその歴史を紹介します!
1 塩川沿いに残る堤防
国道141号線の沿線では、草木に覆われた堤防がところどころに残っています。
これらの堤防は、近世から明治時代以降にかけて築かれ、塩川沿いにはいまだに数多くの堤防が残されています。
では、これらの堤防は、どのような場所に築かれ、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
まずは、堤防の分布を見てみましょう。
塩川沿岸の堤防遺跡の分布
上の図は、山梨県教育委員会が1998年に刊行した『山梨県堤防・河岸遺跡分布調査報告書』から抜粋しました。
青線は堤防遺跡、赤線は堤防遺跡推定地を示しており、塩川沿いには、堤防が比較的集中して分布しているのがわかります。
図の青線で示された堤防の中には、洪水時の水の流れを調節するために川の上流側に向かってハの字状に開く「霞堤(かすみてい)」と呼ばれる形式のものも見られます。
一方で、この地域には、塩川の流れに沿って平行に配置された堤防が多く見られます。
これらの堤防の背景を考えるうえで手がかりとなるのが、塩川沿いで発生した水害の記録です。
2 明治時代の大水害と塩川の治水
韮崎市内では、明治時代に入ってから毎年のように水害が発生したとされ、洪水への対応が大きな課題となっていました。
なかでも、明治15年9月に発生した豪雨は山梨県全域に被害をもたらし、特に被害が大きかったのが塩川とされています(「県下水害ノ景況概略上申」(明治15年11月18日))。
当時の被害状況について、塩川では堤防や川除(かわよけ)、橋などが流失し、洪水が道路や人家、田畑に流れ込み、さらに人命にも被害が及んでおり、その被害の大きさがうかがえます。
それでは、こうした水害に対してどのような対策を考えていたのでしょうか。
明治19年(1886)、山梨県から内務省に対して「塩川河身変更ノ義ニ付伺」という文書が提出されています。
そこで対策として示されたのが、塩川の河道を変更し、水の流れを整理するという計画でした。さらに、河道変更に伴い「五百九拾間余」の堤防を新設することについても記されています。
このように、明治15年の大水害をはじめとする洪水被害を受け、塩川の流れや堤防を整備することは、地域にとって重要な課題となっていました。ただし、現在確認できる堤防の一つひとつが、いつ築かれ、どのような計画のもとで整備されたのかについては、まだ検討が必要です。
3 何気ない風景に残る地域の歴史
現在の塩川沿いには、現代の新たな堤防が整備されています。その一方で、かつて築かれた堤防の中には、役割を終え、草木に覆われているものも少なくありません。
除草作業で姿を現した堤防(北杜市明野町三之蔵 左:遠景、右:近景)
しかし、古い地形図や当時の行政文書をたどっていくと、そこには洪水と向き合いながら、地域を守ろうとしてきた人々の営みが見えてきます。みなさんの身近な場所にも、昔の道や水路、石積みなど、何気ない風景の中に地域の歴史を伝える痕跡が残されているかもしれません![]()
【参考文献】
山梨県1996『山梨県史』資料編14
山梨県教育委員会1998『山梨県堤防・河岸遺跡分布調査報告書』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第152集




