大学時代のブログより「許し×祈り」 | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。
X(旧ツイッター)ID : @yoyo0616

大学時代からやっていたブログ『Laの翼』(読み方はラーでも、ロサンジェルスでも、ラでも構いません。でも、僕はラと呼んでいます。音程のラです。)に長文だが、面白い記事があったのでシェア。

Laの翼「許し×祈り」
http://blog.livedoor.jp/yoyo0616/archives/51221487.html


最近、人の悪口を言うことを覚えました。
友達たちといる時に、その友達に口を合わせるために言ってしまいます。
今までのブログに僕が書いてきたことと矛盾しているんじゃないか??
そう思われても仕方がないです。

悪口は、人間関係の潤滑油。
その通りなんだよな。
人と仲良くするためには、僕は他の方法を使いたいけど。

でも、悪口を言っている中にも、
そこに「許し」があるはずと信じたいし、信じずにはいられない。

「あいつさ~、××だよな」
「あの子、ホントは△△だよね」

そう、人は言うけど、その人は「あいつ」や「あの子」の全部を否定しているわけではないよね?
どこかで、その人を肯定する「許し」があるよね?
そう思わずにはいられません。

「否定」という感情が嫌いなんです。

「批判」は大切なことだと思います。
人や物事や世界を良くしていく上で必要なことです。

でも、「否定」は、その人の存在を認めないことでしょ??
僕は、そこに悪意や醜い感情を感じてしまう。
すると、一人でブルブル震えます。

「批判」と「否定」は違います。
批判は相手の悪い所を指摘して、相手をplusに持っていこうとする力です。
でも、「否定」はただ、否定するだけ。
自分の価値観や性に合わないものを否定するだけという、
ネガティブな感情です。

そして、この「否定」は、
今、世界中の至る所にあります。

世界には、いくつもの「分断」がある。
そして、そこには、その数だけの「否定」があるのです。

まず、最初の分断。
それは、「自分」と「他人」。

「その人の気持ちをよく考えて」
よく人は言います。
でも、その人の本当の気持ちなんて分かる訳がない。
人の今の気持ちというのは、その人の今までと今の全てが反映されたものです。
小さい頃の経験や、今までの友達や仲間、恋人とのあれこれ、
直前の出来事、今起こった出来事の要素への印象……、
そういうものが全部詰まったものなんです。
それを他人が知り分かるなんて、できるわけがない。

「自分の身に置き換えて考えて」
これは、できます。
でも、これをすることで、その人を傷つけないかというと、嘘だ。

僕は、「人の悪意」に傷つきますが、それ以外のことは大抵平気です。

サークルで、人が通りかかる所で演技の練習をしている時も、
周りが恥ずかしがる中、
実は全然へっちゃらでした。むしろ、どんとこいという感じ。

幽霊とか超常現象の類も全く平気です。
最も怖いと呼ばれる富士急のお化け屋敷でも、
お化けに怖がることなく、セットや小物のディティールを楽しんでいました。
サークルの合宿では肝試し隊長をやり、一人で真っ暗な森の中にいました。
やってきた人を怖がらせることが何よりのヨロコビでした。
今、巷で流行りのSかMかで言うなら、
ドが47個くらいつくSなんですかね。

自分の弱さをさらけ出すことも、ちょっと恥ずかしいというだけ。
自分の内面をブログに書くことを何とも思わない。
むしろ、それによって、
自分が癒され、人に伝えたいメッセージが伝わるならいいんじゃないの、って。
今、巷で流行りのSかMかで言うなら、
ドが83個くらいつくMなんですかね??

でも、他人のことを、この自分の身で置き換えると失敗します。
昨日も、ちょっと失敗しました。

「自分」と「他人」は違います。
だから、「他人」が傷つくことで「自分」が傷つかないこともあります。
その逆もあります。
だから、「自分の身に置き換えて考えて」も、「他人」を傷つけることもあります。

「自分」と「他人」には分断があります。
「他人」のことを100%分かるなんて無理だ。
むしろ、10%も分からないのかもしれない。
「自分」のことを100%分かってもらうなんて無理だ。
むしろ、1%も分かってもらえないのかもしれない。

でも、人は繋がりを求める生き物です。

だから、分かり合いたいと思う。

だから、恋人を作り、親友を作り、家族と仲良くなろうとする。
その人たちとは分かり合える気がするから。

だから、音楽を作り、小説を作り、映画を作ろうとする。
自分の芸術性や思想、メッセージを分かってもらいたいから。

だから、論文を書き、講義をして、学会に出る。
自分の主張や説、メッセージを分かってもらいたいから。

だから、ブログを書き、mixiに日記を書く。
自分に起こった出来事や自分の思い、メッセージを分かってもらいたいから。


でも、人は、完全には分かり合えない。
たとえ、99%分かりあえたとしても、1%のズレが生じる。
そのズレが、僕が言う「分断」です。

例えば、「あの人とは価値観が違うの」と人は口にする。

例えば、mixiの日記に、自分が言ってほしいことと違ったコメントが返ってくる。

例えば、「あの映画、意味分かんなかったよ」とある人が言う。

そして、分断からは「否定」が産まれる。
人とのズレから、その人とのケンカが起こる。
その人を「否定」したい感情が胸のうちに生じる。
その人の悪口を言いたくなる感情が産まれる。

人を否定する人を見ると、僕は尋ねたくなる。
そこに、「許し」はあるのか、と。

「許し」、それは、人の持つ感情や世界観や、その人自身を肯定する勇気。
魂が入り組んだ世界の中で、「許し」の感情を持つのは絶対に必要なこと。
許しを持たないと、人と世界を否定するだけになってしまう。

完全に、人を許せなくなってしまった人は、人を傷つける。
時に、人を殺してしまうということも、あり得るのかもしれない。
完全に、世界を許せなくなってしまった人は、自分を傷つける。
時に、自分を殺してしまうということも、あり得るのかもしれない。


もうひとつの分断は、「異なる価値観」という分断です。
さっきの「自分」と「他人」の分断とつながっています。

その分断で一番分かりやすいのは、宗教かな。

「神を信じて、世界の自分に対する許しを得よう」
それが、宗教です。

僕は、宗教という信仰を持っていない。
信念は持っているつもりだけど、宗教は信じない。
これからもそのつもりです。

でも、宗教が伝えたいメッセージは、
分かることができると信じたいし、
分かりたいと思っています。

しかし、宗教のことを頭ごなしに否定する人がいます。
過去のオウム真理教に関する一連の事件や、
街角で宗教の勧誘をする人のアヤシさ(失礼)や、
政教分離のはずの日本における公明党の存在が、
その人たちに、影響しているのかもしれません。

そこで、出てくるのが、
「宗教を信じる人」と「宗教を信じない人」との間の分断。
その分断の前には、
「霊的なものを信じる人」と「信じない人」の間の分断もあるでしょう。

僕は、「霊的なものがあると信じるか?」と聞かれたら、
「確信を持っては信じられない。
 だけど、信じたい。信じてみたい」と答えます。

霊的なものが実在する存在で、目に見えるものだとは思いません。

でも、人間の想像力が、人間の想像の世界に、霊的なものを作ります。

人の世界が、目に見える世界だけで成り立っていると思ったら間違いだと思います。
目に見える世界だけでなく、ココロの世界があるはずです。
誰だって、ココロを持っています。
ココロがあるので、笑ったり、泣いたり、怒ったりします。
楽しく笑っている時のココロは、目に見える世界を明るく映し出します。
悲しく泣いている時のココロは、目に見える世界を暗く映し出します。
許せなくて怒っている時のココロは、目に見える世界を歪んで映し出します。

目に見える世界よりも、ココロの世界が広大な人は、
視界にココロの世界を描きます。
普通の人が見えないものが見えます。
その人たちには、霊やオーラが本当に見えるのかもしれません。
そういう人たちは、古くから「霊感がある」だとか、「魔力がある」だとか、
言われてきました。
事実、精神病患者の方のケースでは、
そこにいるはずのない人の存在を見て取ったりしています。
(僕は、お化け屋敷でも夜の森でも、霊の存在を全く感じない……(;_;))

日本では「霊感がある」人は、人から畏怖の念を抱かれてきました。
そして、霊はどんなものの中にも存在するのだと言われてきました。

日本人は古くから、
「もののけ」の存在や「物に魂が宿っている」ことを信じてきました。
今では、目に見える世界の方が人にとって比重が大きくなったため、
この信仰は薄れましたが、まだ確かに残っています。
スタジオジブリの「となりのトトロ」や「もののけ姫」のヒットが、
そのことを物語っていると思います。
RPGと呼ばれるゲームの世界や一部のコミックでは、
魔法が大活躍しています。
火や風に魂が宿っているとして、その力をクリスタルという形にした、
ファイナルファンタジーっていうRPGとかね。

J―POPの中にも霊的なものを描いたアーティストも多い。
筆頭はスピッツです。
「生まれ変わるよ」、「魔法」、「輪廻」……、
スピッツの歌詞には、こうした霊的な言葉が多くでてきます。

文学にも、映画にも、霊的なものを描いた作品が多いです。
そういう作品は、大抵「生」と「死」の間を描いています。
死んでしまった人が蘇ったり、(黄泉がえり)
生きている人が天国でバイトしてみたり、(天国の本屋)
幽霊がテレビの中からのそのそと出てきたり。。。(リング)

日本では、このように霊的なものを信じることが、
割と肯定的に見られています。

僕は、霊的なものを信じる人のことを否定するつもりはないです。
逆に、なんでも「金」な人や、所属するものの名を過信する人など、
目に見えるものばかり追い求める人よりも、
よっぽど、豊かな心を持っていると思います。

日本以外の国では、どのように霊的なものを信じているのか。

西洋では、古くから「二元論」という考え方がされてきました。
何でもかんでも二つに分けて考える考え方です。

例えば、物とココロは分かれているんだよって考えられてきました。
だから、自然や物に魂が宿っているという考え方はあまりされてきませんでした。

例えば、日本より、生と死の境界はもっとはっきりしています。
西洋の古典的なホラーでは、死んだ幽霊が出ることはほとんどなく、
「ジェイソン」や「ドラキュラ」などの生きた怪物がよく登場します。

こんな風に、分けて考えたがるのは、彼らの宗教のためです。
彼らは、物質を超えた霊的な存在を司るものに、一人の神を想定しました。
一神教であるキリスト教の考え方です。
だから、あらゆるものに神(霊)が存在するとは考えません。
西洋では、霊的な力が使える「魔力がある」人は魔女狩りの対象になってひどい目に会いました。
そうやって、キリスト教で説明できないことの存在を否定してきました。

キリスト教では、人間は生まれながらに罪を背負っていると考えられています。
だから、許されたいと思う。
神であり人であるイエスをキリスト(救世主)であると信じれば、
罪は許されますよ、それがキリスト教の教えです。

ユダヤ教とイスラム教も、キリスト教と親戚関係にあります。
どの宗教も、自分が許されるために信じるものです。

同様に、全ての宗教は、世界の自分に対する許しを得るためのものだと、
僕は勝手に解釈しています。
許しを得て、自分に対する肯定感を得る。
そして、同じ神あるいは教義を信じる者どうしは、分かり合える気がする。
信じるものどうしは、世界への祈りでつながっている気がする。
信じている神や教義を通じて、ひとつになれる気がする。
だから、人は宗教を信じるのだと僕は思います。

僕は、宗教を信じる人のことを否定するつもりはないです。
だって、人は誰だって弱いのだから。
自分に対する肯定感が得られないと不安定になってしまうのだから。

宗教を信じることは、
僕がJ-POPのアーティストのファンであることと、通じている気がします。
僕が、スピッツ、くるり、100s、
Safety Shoes、RADWIMPSなどなどのアーティストを好きなのは、
それらのアーティストと分かり合える気がするから。
もちろん、アーティストは僕のことを知りません。
でも、アーティストは自分の魂を詞にのせて、
音楽にして僕たちに伝えようとしています。
その音楽を聴いて、僕が何かを感じれば、
そのアーティストとココロが通じている気がするんです。
彼らの音楽が、前へ自分を後押ししてくれるんです。
そして、そのアーティストが好きな人たちと、
顔も名前も知らないけれど、ひとつになれる気がするんです。

僕に、宗教や霊的なものを信じうる要素も理由もあるのに、
なぜ、僕は宗教を信じないのか。
答えは、霊的なものに対して感じる魅力以上に、
自分の理性や内面を信じて突き進んでいく人たちに憧れを感じるからです。

それまでの西洋の迷信や運命論を打ち破って、
自らの手で、新しい時代や自分の運命を築こうとした近代西洋人。
それまで自分が信じてきた価値観を揺さぶらされても、
新しい価値観を取り入れ、日本をよりよくしようとした近代日本人。
そして、今の日本に生きる、
僕が教わった、世界をplusにしようとする先生や教授や、表現者。
彼らの信念を、純粋にかっこいいと思うんです。

まだ、僕と彼らの間には高い障壁があります。
僕なんか、他人に同調してばっかだな。。。

でも、高ければ高い障壁の方が、

萌えます。


いや、今のナシ。やり直し。

高ければ高い障壁の方が、

燃えます。

(そんな僕は可燃ゴミ。←リサイクル可能)

宗教を信じるものどうしの間にも分断があります。
信じている神や宗派による違いによる分断です。

今の世界で一番問題なのは、キリスト教とイスラム教の間の分断です。
いや、
非イスラム教徒とイスラム教徒の間の分断といった方が正しいかもしれません。

キリスト教世界の情報は、僕たちに入ってきます。
メディアは、日本と関わりのある西欧やアメリカの情報は伝えるからです。
でも、僕らにはイスラム教世界の情報は入ってきません。

いったい、
どのくらいの人がイスラム教はおおらかな宗教であることを知っているのでしょう?
「イスラム教=自爆テロをするようなアブない宗教」ではありません。
イスラム教は、語弊がある言い方だけど、
「嫌なことは、全部、神サマに任せちゃえ☆」
という宗教です。
イスラムの過去の国であるオスマントルコの支配は、
非イスラム教徒にも優しく、
世界史上1,2を争う寛大な支配であったことが知られています。

いったい、
どのくらいの人がイスラム教信者の多くが陽気でおおらかな人間であることを知っているのでしょう?
でも、怒る時は鬼神のごとく怒ります。
彼らが怒る時は、他人が、子供を殺した時と、女性を悲しませた時、自分の信じる神を侮辱した時です。
先の戦争は、無実の人間をたくさん殺しました。
女性も子供も。
彼らは、それに怒っているのです。

いったい、
どのくらいの人が、
イスラム教信者の女性がかぶるスカーフを「取れ」と言うことが
彼女たちに対する辱めになっていることを知っているのでしょう?
そう、スカーフについてとやかく言うことは彼女たちに対するセクハラなんです。
彼女たちは、自分の髪のことを、恥部のようにセクシャルなものと思っています。
スカーフをつける動作は男性の前で見せられるものではなく、
下着をつける動作と同じように行われているそうです。
それを僕たちは知らない。
これは一つの例ですが、
彼らの情報が入ってこないために、僕らには彼らに対する知識がないんです。
だから、非イスラム教徒とイスラム教徒の間で無知による衝突が起こってしまいます。

「自分」と「他人」の間に衝突が起こることがあるように、
信じている宗教が違うなどの、
価値観が違うものどうしの衝突も起こります。

あらゆる衝突は、お互いに許しあえないから起こります。
ある人は、許せないから他のある人を否定します。
ある国は、許せないから他のある国を否定します。

その衝突は、ひどいものになると、戦争になります。

戦争は、人を殺します。
身近な人を殺された人が、殺した人を憎んでその人を殺します。
そうやって、憎しみの連鎖が広がっていきます。
しかし、殺した人は、実は自分が殺した相手と、
その戦争が起こらなければ、仲良くなれたのかもしれません。
許しあえたのかもしれません。

実は、同じアーティストが好きだったりして。
実は、同じ女優が好きだったりして。
実は、同じAV女優が好きだったりして。(ウソ)

でも、憎しみの連鎖は止まりません。
そのうちに、世界を包む炎になることがありえます。


戦争をなくす方法が、ひとつあります。

それは、全ての人が分かりあうことです。

ですが、それは全ての人が同じ宗教を信じるような、
異常な事態にならない限り不可能です。

戦争をなくす方法が、もうひとつあります。

それは、全ての人が武器を持たないことです。

ですが、今の世界は、
人が自衛のための武器を持つことが普通の世界です。
国が自衛のための武力を持つことが普通の世界です。
日本国憲法のように、武力を否定する憲法が他にあることを僕は知りません。


戦争をなくすのは、不可能なことなのかもしれません。
でも、僕は生きているうちにその世界を見たい。
人が許しあえる世界を見たいんです。

そう、僕は祈ります。

憎しみが連鎖するように、
祈りが連鎖することもあると僕は信じます。


しかし、僕は、「戦争」が起きていることが実感できていないことも事実です。
ブラウン管の中の出来事になってしまいます。
みなさんも、そうですよね??
戦争など、想像力を働かせてみても遠い世界。
僕にとってはリアルタイムではないけど、
湾岸戦争の時、テレビで、小さな光の点が降り注がれる光景を見て、
どれだけの人が、そこに、たくさんの人の死を感じたのでしょう。
ああ、まるでテレビゲームじゃないか。
そう感じた大人の方が多いと思います。

僕らにとって、もっと身近な衝突は、
所属するグループどうしの衝突や、
人どうしの価値観の違いによる衝突です。

最近は、インターネットの中の衝突も多くなった。
ネットは、匿名性のある空間です。

だから、本音をぶちまける。
そこまではいいんです。

問題なのは、他の人の本音を聞いて、
その人のことを全否定する人がいるということ。
これは、ネット上に限らず、リアルな世界でも同じです。

人には、許しが必要なんだと思います。

人には、他人の本音を許せる愛情が必要なんだと思います。

人には、他人の過ちを許せるユーモアが必要なんだと思います。


人が作った作品を否定する人たちもいます。
それによる、衝突も起こっています。

子どもの頃に読んだから、作品の良し悪しが分からなかったからかもしれない。
今読んだら、全然ダメな作品だと思うのかもしれない。
でも、ネット上でネタにされ、蔑まれている、
「ロケットで突き抜けろ」(キユ)
というマンガが、そこまで否定されるべき作品なのかと僕は思った。
だいぶ前に読んだから内容は忘れたけど、
子ども心に、その作品に「自由」を感じた気がする。
思えば、あの作品が僕にとっての初めての「ロック(Rock-et)」だった気がする。

「バトルロワイアル」を僕は小説で読みました。
例の事件で注目される前、発売当初、僕が中学生だった頃です。
確かに、中学生が殺戮しあうというストーリーは、
残酷極まりない。
でも、本質はそこじゃない。
殺し合いを強要する大人たちに立ち向かう少年少女の物語だ。
歪んだ解釈で、殺人を肯定したストーリーと捉えたから、
悲劇が産まれた。誤解が産まれた。

スピッツをモチーフにした映画の「海でのはなし。」をかつてネット上で観た。
当時のネットには、この映画を否定する意見が多かったと思う。
確かに、中盤の話は、重すぎてちょっと唖然としてしまったんですけどね。
スピッツの詞のテーマである、
「嘘」「運命」「不確か(幻)と確か(抱きしめる)」「海」などが、
一つのストーリーの中に織り込まれていて、うまいなと思いました。

これらの作品に対しての、ネット上での反応は「否定」が多かったように思います。
「批判」じゃない。
作品や作品に関わった人たちをplusにしていこうという意思が感じられない、
単なるネガティブな感情の吐露みたいな反応だったと思います。

僕が言いたいのは、「全ての作品を肯定してくれ」ということじゃない。
ただ、全ての作品に対して許しを持ってください、ということです。
その作品が好きなファンに対する許しを持ってください、ということです。

あらゆる作品に対する許しを持つということは、
あらゆる世界観に対する許しを持つということです。
他人の世界観を否定する作品や世界観にココロを売ってはいけないけど。

ジャンルに対する許しを持っていない人もいる。
例えば、J-POPという分野に対して。
例えば、ライトノベルという分野に対して。
例えば、アニメという分野に対して。
例えば、クラシックという分野に対して。
例えば、お笑いという分野に対して。

とても、もったいないと思うのです。
全部、どんなジャンルでも、その世界を覗いてみて、
自分のフィーリングに合うジャンルを楽しめばよいと思うんです。
メインカルチャーとか、サブカルチャーとか、そんな括りはいらない。
「新世紀エヴァンゲリオン」も、「ハウルの動く城」も、
「涼宮ハルヒ」も、「ノルウェイの森」も、
「いま、会いにゆきます」も「セクシーボイスアンドロボ」も、
「ROCKIN’ ON JAPAN」も「ORICON」も、
「トリビアの泉」も「バカの壁」も、
「産経新聞」も「朝日新聞」も、
「爆笑問題」も「ダウンタウン」も、
ぜ~んぶの世界を一度覗いてみて、自分に合う世界を探してみればいいと思うんです。
自分とは程遠いと思っていた世界が、
実は自分にピッタリな世界だってことがあるんです。

えっ、そんな時間はございません、って??
それでいいんです。
でも、そういう心が持てれば、世界に対して退屈することはない。
そして、他人と他人の世界への許しが得られると思います。

学問というジャンルに対して、根っから否定する人もいます。

学問なんて、小難しいもので、
ネクラや物好きなヤツがやるもんだ、と。

違う、違う。

学問が、受験のための道具ではなくて、自分の武器になりうることを、
いったいどれくらいの人が知っているのでしょう。
もしくは、知っていても、自分とは無関係だと思っているのかもしれません。

学問を楽しむことは、学者の専売特許なんかじゃない。

学問は、人から遠いものじゃない。
なぜなら、学問は人を幸せにするためにあるのだから。

学問は、人に色々な物の見方があるのを教えてくれる。
そして、そのどの見方も、
その見方をする人の立場によるものであることを教えてくれる。
どの見方も正しくないのだ。また、どの見方も正しいのだ。


科学も宗教も社会科学も文学も、この世界を説明するためのものです。
説明することで世界を理解し、
よりよい自分とよりよい明日へ変えていくためのものです。

でも、みんな想像でしかない。
「真実」に見える科学だって、99,9%は仮説だ。

人の価値観も作品も、この世界をそれぞれの立場で説明するものです。

でも、これも、想像でしかない。
絶対に正しい価値観などある訳がない。

それぞれがそれぞれの答えを求めて、
それぞれの幸せのために、
科学や宗教を信じ、学問をして、
自分の価値観を持ち、作品を作り、作品を観る。

でも、そのどれもが想像の世界でしかない。

だとしたら……、

だとしたら、
想像の世界がぶつかり合い、
実際の世界で衝突が起こることに一体、何の意味があるのか。

幸せのために、精一杯想像した結果、
その想像が違うことで、
否定しあう。
悪口を言い合う。けなしあう。おとしめあう。
血を流し合う。殺しあう。
一体、そのことに何の意味があるのか。


僕らは夢の中の世界でも、否定しあうの?

僕らは幸せを求めて、不幸を作るの?


僕らにできることは、

人を許すことだ。

人の抱える世界を許すことだ。

祈ることだ。

身近な人に愛を捧げることだ。

そうすることで、少しでも分かり合おうとすることだ。


僕らが想像で描くべき世界は、
白と黒の世界なんかじゃない。
YESかNOかの世界なんかじゃない。
無数のカラーつまり世界観を認め合い、
互いに許しあう世界のはずだ。

そんな世界を思い描いてみてください。

ほら、その世界には、
君が輝ける場所がある。
どんな人でも輝ける場所がある。


違いますか?



今日の一曲
鵠沼サーフ/ASIAN KUNG-FU GENERATION
♪少年Aは孤独だけ抱えて
 そっと未来を待っている(…)
想像力ってヤツだけ
 一発で誰かを救い出せるような♪