命日なので再録「おじいちゃんが亡くなった。」 | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。
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2014年の6月2日はおじいちゃんの命日。
亡くなった時に書いたエッセイを発掘できたので、再録します。

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6月2日、おじいちゃんが亡くなった。
享年89歳。
長生きしたけれど、
「あと1年生きれば90歳だったね、もったいない」
と母が言っていた。


優しいおじいちゃんだった。
いつも笑顔だった印象がある。


9年前からアルツハイマー性の認知症にかかり、
介護施設の役割も兼ねた病院に入院していた。
認知症にかかってから、
意味の通った会話はできなかったが、
僕たち家族が病院に行くといつも笑顔で迎えてくれた。
そしてよく冗談を言っていた。
認知症にかかっていても人を褒めることを常に忘れず、
病院を訪れた母や妹に対して、
いつも「綺麗だな~」と言って容姿を褒めていた。


おじいちゃんは戦争を経験した。
戦中、当時エリートの入るところと言われていた満州鉄道に入社した。
そして、シベリアでロシアの捕虜となり、
長い年月をシベリアで過ごした。
おじいちゃんは大変な努力家で、
捕虜になってから隠れてロシア語を必死に勉強し、
ロシア語を習得した。
ロシア語を覚えてからは、
診療所で通訳として働いていた。
ロシア語が達者であることと小柄で愛嬌があったことから、
ロシア人兵士から可愛がられ、
シベリアから日本に戻ってきたのは、
その場にいた日本人の中で一番最後になった。


満州鉄道に入社した時は20歳前後で、
地元である日本の仙台に戻ってきた時は24,5歳。
青年期の長い期間をシベリアで過ごした。
老後、シベリア抑留者の集いでシベリアに何度か訪れていたようだ。
シベリア抑留は辛い経験だったが、おじいちゃんにとっては
シベリアは青春時代を過ごした場所でもあったのだ。


だが、日本に戻ってきてから大変だった。
長い時間をロシアで過ごしたことにより、
共産主義者として疑われ、就職することが難しかったのだ。
当時は、レッドパージと呼ばれる共産主義者狩りが横行していた時代だった。


それでも、おじいちゃんはメーカー会社になんとか就職した。
そして、お見合いでおばあちゃんと出会う。
おじいちゃんがおばあちゃんと結婚したのは29歳の時。
当時としては晩婚だった。
おばあちゃんも優しい人で、人間味あふれる人だった。
おじいちゃんは小柄だが、おばあちゃんは大柄で、
おじいちゃんよりもおばあちゃんの方が身体が大きかった。


その後、一人娘である僕の母が生まれる。
おじいちゃんとおばあちゃんに大切に育てられた母。
おじいちゃんは長く務めたメーカー会社を退職後、不動産会社に再就職した。
その不動産会社で僕の父と出会い、一緒に働いていた。


ある日、おじいちゃんが飲み会の場でお酒で酔い潰れ、
僕の父がおじいちゃんを家まで運ぶことになった。
そこで、父と母は運命的な出会いをする。
母に一目ぼれした父は母にアプローチ。
二人は付き合うことになり、結婚するに至った。


そして、僕が産まれ、
僕が産まれた4年後に妹が産まれた。
僕が産まれた後、
父と母と僕は仙台から関東に引っ越した。


僕は、おじいちゃんとおばあちゃんのいる仙台に遊びに行くのが好きだった。
小学校の夏休みの度に仙台まで新幹線やまびこで向かった。
僕たちが住む東京のマンションの一室よりもずっと広い仙台の二階建ての一軒家。
東京よりも空気が綺麗でおいしい気がした。
8月にある七夕祭りも、色とりどりの七夕飾りの下をくぐり抜けていくのが楽しかった。
おばあちゃんと家の近くの八百屋や魚屋に二人でよく買い物に行ったっけ。


僕たち家族は、僕が中学生の時に東京から埼玉に引っ越した。
そして、僕が15歳の時におばあちゃんが亡くなった。
おばあちゃんに先立たれて、おじいちゃんはとても悲しかっただろう。
おばあちゃんが亡くなってから、
おじいちゃんは僕たちのいる埼玉の家の近くに引っ越してきた。
娘夫婦が近くに住んでいた方がなにかと便利で心強かったからだ。


僕はよくおじいちゃんの家に遊びに行った。
テスト勉強とか自分の家で集中して勉強できなかったので、
おじいちゃんの家でよく勉強していた。
おじいちゃんは手料理をふるまってくれたり、
何かと僕を気にかけてくれていた。


おじいちゃんも夕飯時になると、僕の家に来て夕食を一緒にとっていた。
家で飼っている二匹の犬(アンディとレイナ)のうち、
アンディと特に仲が良く、
アンディと一緒にいる時は、顔をほころばせていた。
おじいちゃんが亡くなって、今日告別式だったのだが、
その遺影もアンディを膝に乗せていた時の満面の笑みのおじいちゃんの写真だ。


おじいちゃんとの思い出で印象深かったのは、
三度の海外旅行。
マレーシア・シンガポール。
ヨーロッパ。
ハワイ。
ヨーロッパではひったくりに会い、
ハワイではぼったくりに会ったなど苦い思い出もあるが、
とても楽しい旅行だった。
そして、ハワイ旅行の時から、
おじいちゃんの認知症は始まった。
ハワイに行くという環境の急激な変化に、
年老いた頭はついていけなかったのだろう。


認知症になってから、
僕たちはおじいちゃんのいる病院に定期的にお見舞いに行っていた。
会社に勤めていた時は働き者だったおじいちゃん、
病院でも、自分は働いていると思いこんでいたそうだ。
看護師の方も、荷物を運ぶ際などは
ぼけているおじいちゃんに手伝ってもらっていたとのこと。
その方が、おじいちゃんの精神的にも良いそうなのだ。


亡くなったのは突然の出来事だった。
おじいちゃんが部屋を訪れた病院の先生に冗談を言い、
その数分後に看護師が部屋を訪れたところ、息を引き取っていたという。
母もおじいちゃんの最期の瞬間に立ち会えなかった。
死因は老衰による心不全。
重い病気にかからずに亡くなったのが不幸中の幸いだ。


生前は僕の妻に会うことがなかったおじいちゃん。
告別式で妻の顔を見られて、天国でも喜んでくれているかな。


亡くなったおじいちゃんとおばあちゃんは、
今ごろ二人で天国で会っているだろうな。
夢の国でも好きな人となかなか会えないけど、
天国ならきっと出会えてるさ。
1月に亡くなった愛犬のアンディと一緒に天国でも元気でね。
好きなお酒を飲みながら楽しく過ごしてね。


さようなら、おじいちゃん。
今までたくさんの思い出をありがとう。


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くるり - ロックンロール



その昔、「岸田繁から志村くんへ」という動画がありまして…。
今は削除されて見られなくなっています。
亡くなったフジファブリックの志村さんに向けて、
くるりの岸田さんが名曲「ロックンロール」を歌っていました。
それを聴いて、
ああ、くるりの「ロックンロール」という曲はこういう曲だったのかと。
「あなたを思う本当の心があれば 僕は全てを失えるんだ」


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100s - やさしいライオン

 いつ出会い、いつ別れ、いつ笑い合えるかって、
 知らないし、見えない。そこが行くとこなら、
 出会い、別れ、笑い合えるまで、
 もういない あなたを 明日へと送るから。

 逢いたいならば声に出して。
 逢う場所は、心にして。
 みんな今、未来に手ぇ伸ばすぜ。
 あなたは、ただ、心に居て…。
(歌詞)

100sのベーシストである山口寛雄さんのお母さまが亡くなられたことが
きっかけとなって作られた歌です。


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(カバーですが…)

中村一義 「歓喜のうた」

 君にとって私はどういう存在でしたか?
 僕にとってあなたはどういう存在だったのかな?

 逢えるかな?また逢えるかなぁ。
 「いつだって心は逢えるだろ?また、逢えるだろ。」
 ホントだ。逢えたね。

 ちゃんと生きたものに、で、ちゃんと死んだものに、
 「ありがとう。」って、僕はなんで想うんだろう。
 ちゃんと生きた君に、で、ちゃんと死んだ君に、
 「ありがとう。」を今、言うよ。
 「ありがとう。」を、ありがとう。この歓びを。
(歌詞)

おじいちゃんの遺体を斎場で火葬している時、
遺骨を箸で拾っている時、
この曲が脳内に流れてきて、涙がぽろりぽろりと出てきた。
これからも逢いに行くね、おじいちゃん。