悪意に抗う(『君の名は。』『蹴りたい背中』『タクティクスオウガ』『おかあさんといっしょ』) | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

以下の文章は病気が重くなった際に削除してしまった記事を下書きを元に復元したものです。今も気持ちは変わっていません。「悪意」に抗いたい。

■綿矢りさ『蹴りたい背中』(小説)

綿矢りさの『蹴りたい背中』を読んだ。

適度な違和感を覚える比喩を駆使し、共感と嫌悪感の両方を覚えさせる作者の文章の表現力が怪物級。次から次へ意表を突く言葉が飛び出してくるあの感じ。

主人公から他者に向けられる、心の中をのぞきこみ、えぐり込むような怜悧な視線。他者からも、輪の中に入ろうとしない主人公は怜悧な視線を向けられている。この冷え切った人間関係に底冷えする。主人公の「にな川」に対するサディスティックな愛情もかなりえぐい。主人公を取り巻く人間達への観察力が細部まで凄まじい。出口の見えない軽い地獄の中で切迫する主人公の気持ちを想像すると参ってしまう。伝わる文章力があるからこそ、読み手の僕も痛切な気持ちになってしまうのかもしれない。

作者の力量には素直に感心するが、鬱屈し閉塞した青春をひずみと共に描くこのような作品はもう読みたくない。

「悪意」というものを考える。自分の中にある悪意。他者の中にある悪意。「悪意」は誰だって多かれ少なかれ持っている。『蹴りたい背中』の主人公も思春期ならではの悪意ある視線を周囲にばらまいているし、悪意ある視線を向けられてもいる。

僕は「悪意」に弱い。大人になって良かったと思うことの一つは、悪意がオブラートにくるまれることだ。職場において、思春期のようなむき出しの悪意が襲ってくることは、今のところ、僕に限っていえばない。僕にとって、職場は学校よりも生きやすく楽に呼吸できる場所だ。

■『おかあさんといっしょ』(テレビ番組)

一歳半に近くなった息子と一緒に『おかあさんといっしょ』を観ている。他の児童番組の追随を許さない、この完成度の高さ! 息子も夢中になって観ている。演者も音楽も舞台装置も小道具も何から何までプロフェッショナル。

悪意の入り込む隙間がないのだ。うたのおにいさんとおねえさんである、だいすけおにいさんとあつこおねえさん、よしひさおにいさんとりさおねえさんは、心の中で悪意を持っているかもしれない。だが、番組上では、悪意がある少しの素振りさえ見せない。子供に安心して観させられるゆえんだ。

僕は店員さんが挨拶をせず少し冷たく思えるだけで傷ついてしまう。そこにないはずの悪意を読み取ってしまう。悪意に対して脆弱な僕にとって、『おかあさんといっしょ』の世界は楽園に思える。

■『タクティクスオウガ 運命の輪』(ゲーム)

シミュレーションRPG好きの間で評判の高いゲーム。これは確かに傑作だ。必要最低限のリアリズムと共に戦場の理想を描き切っている。リアリズムと理想のバランスが僕にとって理想的なストーリーだった。

第2章タイトルの「思い通りに行かないのが世の中なんて割り切りたくないから」という言葉は生涯の格言になりそう。

セリフの選択肢によって、物語が分岐して大きく変わるのも面白い。

後に本作のスタッフはファイナルファンタジータクティクスを作ることになるが、世界観とストーリーに多くの共通点が見られる。どちらも良作なのでおすすめです。

社会を絶え間ない悪意と善意の抗争だとしたら、民族融和という理想を掲げたこのゲームは善意の側に与するゲームだろう。家族や近しい人を他民族に殺されたら憎しみの連鎖は広がっていく。その連鎖はどこかで止めなければいけない。僕は自分の本質が悪魔だとしても、善意の側に与したい。

愛情が人間の自然な感情であるように、憎しみもまた、人間の自然な感情だ。その自然な感情にあらがうためには強くなくてはいけない。このゲームの主人公のように、授かった命という責任を善意の側に与するという方法で力強く果たしていきたい。

何が善意なのかは人によって違うけれど、なるべく多くの人にとって共通する善意を探していきたい。

ブログも影響力を行使できる手段としてこれからも使っていきたい。

僕みたいな30超えたおっさんは仕事や家庭が忙しくなるorそっちの方が大切になるので、次々とブログを辞めていくのであります。僕は辞めるつもりはないけどね。神聖かまってちゃんのの子を少しパクって言えば、僕こそが『とかげ日記』であり、『とかげ日記』こそが僕だから。

■新海誠『君の名は。』(映画)

『君の名は。』にファンタジーが傷を癒していく可能性を見る。現実にあり得ない世界を構築するファンタジーは現実で受けた傷を癒すのだ。 震災などの天変地異の時、あるいは、誰かを傷つけてしまって時間の針を戻せない時、あの時ああしていればという後悔は少なからぬ人が持っていると思う。ファンタジーはそれらの後悔をひっくり返すことができる。ファンタジーが僕にとって魅力的に映る理由はそこにある。

『君の名は。』をロジックがないと批判する人がいた。この映画において、ロジックは神と巫女の超越性に委ねられたのではなかったのか。神と巫女がもたらす、論理では説明できない奇跡は、論理でがんじがらめになった頭をほぐしていく。

僕が神聖かまってちゃんやうみのてなどの狂気をテーマとする曲を作るアーティストが好きなのも、普通の論理から離れた場所にある歌が好きだからかもしれない。

論理性を軽視するのはブロガーとして致命的だ。でも、僕は論理性よりも直観を重視したい。頭の中にある論理の鎖からではなく、魂の泉の底から活力ある言葉をくみ取りたい。それでブロガーとしてどこまでいけるかは、僕の挑戦だ。

『君の名は。』において登場人物たちに悪意がないのもファンタジーだろうか。いや、悪意はあった。主人公の一人である三葉は、一部のクラスメイトから巫女という異物として疎外されている。もう一人の主人公である瀧は、夢の中で三葉と入れ替わった際に疎外してくる者に対してちょっとした反撃をするのだ。

悪意に反発する力が欲しい。僕の貧弱なメンタルタフネスでは、これから先も悪意を乗り越えていけるか分からない。でも、乗り越えていくのだろうな。世間と社会のリアルを見つめて、あるいは周囲の人の心ない言葉に傷つきながらも何度でも立ち上がりたい。先人達が作った作品は僕にとっての道となる。

『君の名は。』は僕の傷を癒してくれる物語だった。論理と時間を超えた直観とファンタジーとその結末が優しい善意の魂となって、僕のえぐれた傷口をふさいでくれた。