神様のケーキを頬ばるまで (光文社文庫) Amazon |
以下の文章は、病気が重くなった際に削除してしまった記事を下書きをもとに復元したものです。
ツイッターの相互フォローの方から紹介され、彩瀬まる『神様のケーキを頬ばるまで』を読んだ。
五つの短編の主人公達が自分自身にまとわりつく泥のぬかるみのような苦境から、小さいけれど確かで新しい一歩を踏み出す、その瞬間に涙が出そうになる。この短編集はそういった小さな救いの物語を集めたものなのだが、同時に、人それぞれの抱いている世界観の多様さを描こうとした作品のように思えた。五編の短編に共通して、作中にウツミマコトの『深海魚』という映画が登場するが、嫌いから熱烈な支持まで、この映画への見方が登場人物達の間で異なるのが興味深い。人と違う考えでも、その考えを大切にしてよいし、主張してもよいのだと安心する。
作中にこんなセリフが出てくる。
「同じ作品、同じ経緯についての感想なのに、なんてばらばらなんだろう。そして二人ともまるでしっかりと根付いた木のように、自分の考え方に確かさを感じている。」(p.143.)
同じ人物を捉えた描写なのに、「陰気」と思う登場人物もいれば、「人の良さそうな」と思う登場人物もいる。
そうだ、考えは、人によってばらばらで良いんだ。そんな当たり前のことが、この小説を読んだら、腑に落ちた。大半のレビュアーがAmazonのレビューで★1つの評価をするCDでも、自分が★5つだと思えば、僕にとっては★5つだし、全員が★5つの評価をつけたCDでも、僕が★1つだと思えば、僕にとっては★1つなのだ。
誰かが僕の考えを間違っていると言っても、僕が正しいと思えば、僕にとっては正しいんだ。
思えば、これまでの僕は自他を隔てる境界線があやふやで不明確だった気がする。誰かが好きだと言えば、その作品が嫌いな自己が揺らぐし、誰かが嫌いだと言えば、その作品が好きな自己が揺らぐ。あなたが今読んでいるブログ『とかげ日記』は、そんな自分が、この作品が好きだ!と胸を張って言うための場所だ。たとえ、僕以外の誰もがフェイバリットに挙げていなくても、『とかげ日記』上なら、好きだと一押しできる。
しっかりとした根を張ろうと思った。自分を持とうと思った。普段の会話でも自分を主張できるように。
何かを嫌いだと言うことも、恐れないようにしよう。僕を嫌いだと言われることも恐れないようにしよう。
以前にこのような記事を書いた。
【バンドや作品をディスることについて】炎上してもヘイトをヘイトする
今は考えが変わった。ヘイトはヘイトとして受け入れよう。ディスはディスとして受け入れよう。自分の中のヘイトもヘイトとして外に出すことをためらわないようにしよう。この小説に出会って考えが突然変わった訳ではないが、思考を深めていく過程の中でこの小説に出会って自分の今の考えに確信が持てた。昔の自分も正しいが、今の自分も正しいはず。考える自分の中に、どっしりとした太い根があればいい。この小説に出会えたことを幸運に思う。