北条かやさんの炎上と「正しさ」について | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

何かを伝えたいという純粋な表現の欲求でブログを書き始めたはずなのに、いつのまにか承認欲求を満たすための手段になってしまっている。チヤホヤされたいのだろう。そして、現状はそっぽを向かれている。アクセス数、いいねの数、コメントの数、それらに還元できない表現への思いがあるはずなのに。

ネット上の承認欲求が一度は満たされかけたのに、炎上の憂き目に会ってしまう人もいる。最近だと北条かやさんがそう。

二つ三つの重いネガティブなことが重なると、心っていうのは簡単に壊れてしまう。もちろん、それでも折れない強い心を持った人もいるけど、弱い人だってたくさんいるんだ。だから、ネットでバッシングを受け続けた北条かやさんが「死んでお詫びをしなければ」と言った気持ちも分かる気がするんだ。

北条かやさんが「死んでお詫び」と言ったのは決して自分の命を人質にして相手を脅迫しようと思ったからではなく、本当に辛かったからだと思う。炎上事件をネタにして新刊を出した時には安心したよ。それくらいふてぶてしくてよいのだと思う。彼女をバッシングした人は正しいよ、でも…。

彼女を批判した能町みね子さんのことは好意的に思っています。文春の連載も毎号読んでいるよ。でも、正しさや文化的な地位がなんなのさ。やっていることが間違っていても、自分の命は守らなくてはいけない。逃げても、卑怯でも、ヒューマニズムに反していても。僕にとっては、自分の命を守ることが最も正しい。

僕の友人の一人が僕の行いを批判する。君はいちいち正しくて、僕はいちいち反省するけれども、その正しさが鼻につくこともあるよ。

僕は僕らしく生きる。僕は僕らしく転ぶ。僕は僕らしく立ち上がる。そこに他人の決めた「正しさ」の入り込む余地はない。

君は君らしく生きる。君は君らしく転ぶ。君は君らしく立ち上がる。そこに他人の決めた「正しさ」の入り込む余地はない。

僕も君も自分の信じた正しさのために転ぶことはあるかもしれないが、他人の決めた「正しさ」のために立ち上がれないと思う必要はないんだ。

間違っていてもいいんだ。全てが生きることを肯定し、生きることが全てを肯定する。死んでも守ろうとする「正しさ」なんて、価値はあるかもしれないけれど、生存にとっては妨げになるだけだ。「正しさ」なんて、生存にとっては屑以下の概念だ。

君は生きてくれ! 生きる余裕があるのなら、人への優しさもなくさずに。

(この記事は2017年6月に書いて削除してしまった記事を復元したものです。)

北条かやってこんな人