オイ、いつから”牙”を抜かれたのか? | 頭痛 あれこれ

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 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

 これは、広島大学医学部43卒業生の同級生からのものです。


 お前は、医学部入学当時は、わしら浪人組と違い現役合格の4人のなかの1人で、面倒見がよかったから、6年間クラスの総代を勤めさせ、挙げ句の果ては卒業年度には、インターン闘争の矢面に立たせ、卒業後の1年間の臨床研修の最後には、当時小林康記が研修していた国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院・内科医長の岡田啓成という鬼軍曹に嫌気がさし、国立呉病院に移りたいとの希望から、その身代わりにお前は確か、送り込まれたはずだったナア。当時は、すぐに辞めてしまうと思っていたが、よく我慢して長い間居たものだと感心していたが、途中、いつの間にかクラス会にも一切顔を出さないので、余程虐められているのかと心配していたぞ。小林によれば、岡田鬼軍曹は、研修医を人間扱いせずに、昼夜問わず働かすとの悪評判で有名だったが・・風の便りでは、秋田まで行ったそうだが、このまま帰ってこないのかと思いきやいつの間にか、呉に舞い戻ってきてからは中四国の医学会総会では毎年、奇抜な演題で話題をさらっていたので注目していたぞ。 それも、急性期脳梗塞の血行再開療法について、毎回独特な理屈を展開し、脳外科医と議論をしていたな。ワシも脳外科医として、先輩とやりあうオマエにはいつもハラハラしてたが・・当時は、ワシラ脳外科医にケンカを売っているようなもんだったよな。
 そして、これらを毎月、広島医学雑誌に投稿し、いつも楽しみに読ませてもらっていたぞ。途中、血栓溶解剤の宣伝方法について、ミドリ十字を相手取り弁舌をふるったのがいまでも想い出されるが、昭和62年 以降、これがピタットなくなってしまいどうなったかと思いきや、プロパーによれば全国の共済病院の院長が出席する共済学会総会の席上、「脳梗塞の臨床」という宿題報告を行うなかで岡田天皇の方針をコテンパンにこき下ろしたようで、岡田病院長を激怒させ、そのまま辞表を叩きつけた武勇伝を聞かされ、さすが43青医連の代表と溜飲を下げたものだ。オマエは自分で思い込んだら、恐れを知らぬ無鉄砲なところがあったが・・。さらに、お前が病院を辞めて間もなく、不正請求が露見し、岡田病院長も辞職せざるを得なくなったのは何かの因縁だったのか、未だ俺らには分かっていない。
 それが、いつのまにか和歌山の田辺の片田舎にいるのか信じられない思いだ。

 そして、今回、書籍を出版したのが信じられない。このような本の内容をみると、何時の間に、このような軟派にも等しいものを出したのか信じられない思いがする。これまでの硬派らしく、歯切れの良いものを作って欲しかった。いつのまに牙を抜かれたのか・・
 こんな本の内容よりは、一緒にいれてあったCDの”「片頭痛のセルフケア」出版にあたって”を本の内容にし、学会をこき下ろした方がもっと歯切れの良いものに出来上がったのではないか。残念な限りだ。オマエらしくもない・・・


 このように辛辣に酷評されました。


 医学部在学中とくに医進課程の2年間は勉強そっちのけで、硬式庭球の練習に毎日明け暮れ、夏休みには自転車で九州・四国一周旅行、アルバイトと、青春を謳歌したように思っています。こうした中で、周囲は2,3年浪人組の同級生に囲まれ、現役合格の人間はまさに子供扱いをされ、クラスの取り纏め役をすべて任された記憶しかありません。
 その延長線上にインターン闘争があり、決して思想的な背景があった訳ではなく、当時の広島大学医学部は運動部の諸先輩が多かったことから、こうした諸先輩の影響により、青医連広島支部の委員長にまで担ぎ上げられ、やむなく1年間活動をする羽目になり、これが後々の私の医師人生を左右することになりました。
 その後、国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院へ入り込まざるを得なかったことに象徴されていると言っても過言ではないように思っています。