疋田一直です。

私は福岡県嘉麻市の山中で生活しながら、武道と整体を通じて、みなさんがより良い人生が送れるよう、お手伝いをしております。

日々の気付きをブログに綴っております。みなさん、いつも読んでいただき、ありがとうございます。

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子どもが助けを求めている。

とは言うが、直接助けてと言われたわけではない。

六年生から出っ歯と言われると言ってきた。

何も突然子どもに伝えられたわけではない。

以前から、子どもは私にちゃんと伝えていたのだった。

それを私がそんなに気に留めていなかったのだ。

私はずっと子どものサインを見逃し続けてきたのだった。

ちゃんと子どもの声を聞いていなかったのだ。

あんな六年生たちにはなりたくはない。

二年から三年に上がった頃、子どもはよくそう言っていた。

どうしてと聞くと、からかってくるし、嫌なことを言うからと。

あの五年生たちが六年生になるけん、最悪とも言っていた。

ひと月前くらいからか。

出っ歯と言われると私に伝えてきた。

子どもは出っ歯ではない。

六年生が言い出した。

六年生が三年生の子どもの容姿でからかっている。

六年生ともなれば、最上級生。

下の子を引っ張っていくのが年長の役割だが、そんなことができる人間は大人でもそうはいない。

私が六年生の頃、果たしてどうだったかというと、私は人のことなど一切考えず自分のことしか考えていなかった。

私も何も変わりはしない。

人をいじめていたり、悪口を言ってからかっていたり、そんなことを当たり前のようにやっていただろう。

学級会で、私が人のことをいじめているということを言われたことがあるが、全くピンとこなかったものだ。

いじめるということがどういうことか、その時はまだわかっていなかったのだ。

相手の立場に立つということを考えたこともなかった。

記憶にないだけで、平気でいろんなことをやってしまっていたのだろうと思う。

いろんな人を平気で傷付ける人間だったのだろう。

今もそうかもしれない。

人は気づいていないから、やるのだ。

そんな人間だったので、中学時代に大いにしわ寄せがやってくるのだが、それはまた別の話だ。

六年生とは、いや、人間とは、大なり小なりそんなものだ。

大人になっても程度の低い人間はたくさんいる。

みな、自分がやっていることで人が傷付いているということがわからないのだ。

そりゃそうだ。

自分が経験したことがないから、わかるわけがない。

私は子どもとよく話し合った。

六年生が率先して言うので、他の子たちもうちの息子にそういう言葉を投げかけるらしい。

悪いと思っていないので、おもしろがってみなが真似をするのだ。

あとはビッパとも言われると。

ビッパとはポケモンのビーバーのキャラクターだ。

子どもは深く深く傷付いていた。

我が子が傷付くのは、自分の身が切られるような痛みと言うが、自分の身が切られるより深い痛みがある。

苦しかったろう。

ちゃんと私に伝えていたのに、対処してやれなくて本当にすまなかったと思う。

相手は六年生。

自分より強い。

うちの子は弱い。

まだ対処できないのだ。

自分で解決できないので、折に触れて、私にサインを出していたのだ。

ここはなんとしても守ってやらねばならない。

私はこの子のためなら、何でもやる。

どこまでもする。

私の命など要らない。

その覚悟はできている。

で。

この解決方法だ。

結局のところ、うちの息子がやめてと本気で歯向かうことができるか。

そこだ。

相手に歯向かえなければ、何も変わりはしない。

六年生であろうと、本気でケンカできるかだ。

子どもはいつかは一人で生きていかねばならない。

もしかしたら、明日、私たち両親が死ぬかもしれないのだ。

人生は戦いだ。

自分の居場所は自分で勝ち取っていかねばならない。

相手の問題ではない。

自分の問題だ。

いつになっても、人を攻撃する人間はいなくはならない。

差別もいじめも決してなくなりはしない。

自分がそこにどれだけ対処できる人間へとなれるかだ。

誰かが守ってくれるわけではない。

よそが対処してくれるわけではない。

ただ、子どもにこれを言って対処できているのであれば、そもそも私にサインを出さないだろう。

自分で対処できないから、私にサインを出しているのだ。

弱さは恐怖を招く。

六年生の力に怖れを抱いているのだろう。

何も言えないのだろう。

か細く止めてと言うくらいしかできないのだ。

こればかりはどうしようもない。

まだ9歳だ。

まだ弱いのだ。

いつか言えるようになればよい。

そうなったときが、やっと独り立ちの日となる。

子どもに、まずこのことをはっきりと伝えた。

言われるのは、自分が招き寄せていることだと。

自分が弱いから、言われてしまうのだと。

言うとまずい相手に対しては、相手は何も言ってこないものだ。

弱くてもいい。

やられても相手の目だけは潰してやる。

そんな覚悟の話だ。

カマキリは弱いが、鎌がある。

 

人が踏みつければすぐに死んでしまう。

 

そして、そんなカマキリも弱い子どものうちは逃げ回ることしかできない。

 

ただ、大人になったカマキリは鎌を振るって戦う。

自分の尊厳を、命を、必死で守る覚悟だ。

それがいつかできればよい。

戦えと言うのは簡単だが、戦えなければ、家でも逃げ場がなくなってしまう。

お前はまだ小さい。

少しずつ身体を大きくして、運動して頭も使って、強さを身に付けていけば良いと。

今はパパが絶対に守ってやると。

お互い目に涙を浮かべての話になった。

で。

実際、どう対処していくのか、だ。

これには深く頭を悩ませた。

小さな学校だ。

考えてみれば、全校生徒は20人足らずだが、そのほとんどが兄弟姉妹だ。

世帯でみれば、かなり少ない。

その中で、校区外から通っていて、兄弟姉妹がいない子はうちの子と六年生の子、二人だけだ。

その子とうちの子は地元の子どもではない。

その六年生の子が唯一うちの息子が心を許せるという子なのだそうだ。

その子はうちの息子のことを悪く言わない。

ただ、その子も長い間学校を休んでいた。

学校で非常に辛く思うことがたくさんあるのだろう。

そのことを思うと、心がとても痛む。

その親御さんと転校についてお話したことがある。

うちも常にそのことは頭にある。

この辺は田舎ならではの村社会の縮図なのかなとも感じる。

よそ者は目立つのだ。

うちの息子は、髪は女の子のように長い。

小学校では、この長かった新型コロナによる期間中も一応マスクはしてはいたが、ほとんどあごマスクだった。

一人だけ上靴も履かずに、草履で過ごしている。

さらに目立っている。

目立つやつは、まさしく目に付きやすいのだ。

それはリスクでもある。

子どもが自ら選んでいるようで、私が取らせたリスクなのだと今になって思う。

子は親の顔をいつでも伺うものだ。

本当に子どもが望んでいるものなのか、親の顔を伺ってのものなのか。

親が喜ぶことが子どもの望むことでもある。

この辺りはよくよく見ておかねばならない。

来年になれば、気を許した六年生の子がいなくなるので、うちの子は一人となってしまう。

ただ、そのいじめる六年生たちもいなくなる。

幸いなことは、同じ教室で授業を受ける四年生の子たちが、うちの子の悪口を言わないことだ。

大した子たちだ。

問題はそんな六年生だ。

どこの社会やグループでもそうだが、上のものがその集団の空気を作る。

どれだけ、みなが居心地が良いか。

それは上の者次第だ。

六年生も上の者。

先生も上の者。

学校であれば、校長先生が一番上だ。

この学校には自浄作用があまり働いていないのかもしれない。

小さい子でも自由に発言できる場。

そういう空気感を作り上げることも大切だろう。

私にできることは、子どもを鍛えてやること。

いつでも退避できるようにしてやること。

あとは、学校にこのことを伝えること、それしかない。

ただ、その子たちを注意して、何かを教えたからと言って、何かがわかることなど一切ない。

思いやりや相手の立場になって考えることなど、教えてできることではない。

だが、それはちゃんと伝えなければならない。

 

そんなに悪気があって言っているわけではないだろう。

 

おもしろがって言っているだけだろうとは思う。

ただ、わからないでやっていることほど、酷いことはない。

相手がどういう風に思っているのか。

また、自分が最低なこと、恥ずべきことをしているということを知らねばならない。

上の者には歯向かえず、下の者をいじめることほど、恥ずかしいことはない。

ただ、どれだけ伝えても、何もわからないものだ。

誰かが猛烈なビンタでもすれば、絶対的な記憶として残るだろう。

親か、先生か。

よその子どものことだ。

 

自分や息子ではない。

 

それは私にはできないことだ。

罰ではない。

 

記憶にとどめる手段の一つだ。

まぁ、それが良いことなのか、良くないことなのかは、それぞれで捉え方があるだろう。

まずはここに書いたすべてを、学校の先生に伝えよう。

そして、どう対処するのか。

それを考えてもらおう。

一緒に対処していこうと思う。

私は学校や六年生の責任だとは思わない。

私の責任であり、我が子の責任だ。

そして、その六年生の責任であり、他の生徒の責任であり。

さらには、親御さんたちの責任であり、先生の責任であり、校長先生の責任なのだ。

それぞれがそれぞれで考えていかねばならないのだと思う。

みながより良い学校生活を送れるように。

そう思う。

~~~


私はここに書いたことを学校に伝え、学校に手紙として渡しました。

補足として。

私は悪口を言われることは悪いわけではないと思っています。

言われたことで、言い返せないのであれば、それが言い返せない自分を知る機会となります。

物事とは自分の思い通りになるわけではありません。

どんどん言われればよいとも思っています。

これがまた人間社会なのだと。

そんな中で、弱さや強さを学んでいくわけです。

それもまた経験です。

こういうことが、社会性を育んでいくのだと思っています。

ただ、どんな人間でも追い込まれてしまえば、疲弊してしまいます。

最悪の場合、それは死へと向かいます。

私もそういった経験をしました。

そして、その経験は大きく自分の人生に影響しています。

実際、強いと思われている人間も、華々しいと思われている人間も、弱いのです。

人は強くはありません。

小さいうちは、親が守る。

生物として当然のことです。

どんなに強くなろうとも、より強いものは存在します。

強さは固さでもあります。

固いものは脆い。

 

ただ、まずは強くなれ。

そして、強さを知り、弱さを知ることです。

さらには、その強さ弱さが一面的な世界であることを知ることです。

世界は広いです。

これからも、私は子どものことでたくさん悩むのだと思います。

実際、何をするのが正解なのかは、いつもわかりません。

精一杯生きる。

私にはそれしかできません。

 

 

 

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