「危機意識が低い」とよく言われる。
自覚がなくはない。さすがにここまで生きてくれば、
我ながらやっちまったと思う経験は数知れず。

仕事や誰かのためだったら、細心の注意をはらって
プロセスから組み立てるやり方が身にしみついているのに、
いざ自分のこととなるとからっきしダメだ。


「熱いからやけどするよ」と言われると、どのくらい熱いのか
触ってみなきゃわからないと思ってしまう。
それで痛い目にあったとしても、ちょっとくらいの傷はすぐ治る。
でも触れられなかった後悔はずっと残る。

掃除や洗い物をしていても、手が荒れるのは承知だが、
厚手のゴム手袋をしていると汚れの落ちる感覚が肌でわからない。
雑巾やスポンジの滑りが悪かった場所が、
こするうちにつるつるとしていくその感触が、
「きれいになった」という実感になる。
それが欲しくてやっているのだ。


ヒューマンインターフェースやらユニバーサルデザインやらの
世界では、こういうことをカッコよく言うとHAPTICと呼ぶらしい。
頭と心が求めるものを体が自然と感じる、まさぐる、そして探り当てる。


そんなふうにいろんなものに触れていると、
擦り傷や打ち身ではすまなくて、時には地雷を踏むこともある。
それでも、これは私が私たる所以の根幹にあるものだから、
おいそれとは変えられない。
周りによくいる頭の良い人たちのように、
用心深く賢く計算された生き方はできない。


振り返ってみると、私の人生リセットだらけだ。
勉強も趣味もキャリアも仲間も、新しい世界に踏み出す時には、
いつも惜しげもなくチャンネルを切り替えてきた。
長期計画なんて立てられないし、立てようとも思わなかった。
その場の温度や肌感を頼りにハンドルをきる、
出たとこ勝負のギャンブルだ。


ずいぶんいろんなものを無駄にしてきたようにも思うし、
大事なものを捨てながら歩いてきたのかもしれない。
でも、肌で感じとったことだけは私の血肉となって残る。
身をやいた熱さも胸の痛みも凍えた記憶さえも、
今の私はそれらの感覚の集合体で出来上がっている。
それだけは確かなこと。


人間の体の様々な器官をIoTが代替する時代になっても、
HAPTICであること、それは人が生きることの根底にあると思う。