クリティカルシンキング、略してクリシン。何故と問う事則ち知る事で成り。知る事則ち疑問に問う事で成り。己の考えの原点に辿りし時、人は己を知り、人間を知り、神をも知る。其れが、知恵の木の実が人間に与えし英知の極意成り――。

 

皆さんこんにちは。

考える力を身につけ、自らの頭で考える思考回路:「クリシンマインドセット」の育成プログラムへようこそ。

 

この回では、全人類の全ての思考と全動物の全ての行動の源であり、クリティカルシンキングにおいて中核をなす概念である「因果」と言う言葉について詳しく説明していきます。

 

さて、その前に、皆さん数学はお好きですか?

そうですか。

 

1と言う数字はご存知ですよね。1は、全ての数学の基本です。全ての数は1で出来ているからです。ですから、数学を理解するには、まずこの1を理解しないといけません。普通に、当たり前な話ですよね。それと同じ様に、因果もクリティカルシンキングの基本であり、クリシンマインドセットの全てのステップが、この因果の法則に則っているのです。なので、因果を正しく理解することがクリシンマインドセットを正しく理解することに繋がるのです。

 

では、どうしてクリティカルシンキングの中核が因果なのでしょうか。それ理解するためにまず、前回の冒頭で述べた、クリティカルシンキングの基本的な考え方を思い出してみましょう。

  1. 目的を意識する
  2. バイアスを意識する
  3. 容赦無く問い続ける
これらの基本構造が、全て因果と深く結びついているのです。その事を、この第3部「クリシンマインドセット編」を通して展開していきます。
 

ただ、この回はおそらくクリシンマインドセットの概念の中で一番理解が難しい部分かも知れません。皆さんが触れる新しい情報の量が多いかもしれないからです。いきなり膨大な量の情報を受けても、いきなり全てを吸収する事はできません。しかし、だからと言って避けては通る事はできません。なぜなら、これが理解できないと、次のステップである「論理」が理解できないからです。1が理解できないと2も3も理解できないのと同じ感じです。

 

従って、皆さんにはこの因果がどう言うものなのかをしっかり理解していただくためにも、この因果の回は前半と後半の2講に分けてお送りしていきます。

 

 

因果の話

 

少し哲学的な話になりますが、数学の1や、物理や化学などの粒子や原子といった発見といった様に、人類は有史以前から物質や物事の中核を成す要素を常に追求してきました。

 

こう言った、分割不可能な最小粒子を巡る、「原点回帰」と呼ばれる試みは、古代ギリシャのアリストテレスの「四大元素」などにも既にみられるように、古くから人間の哲学的な関心だった事は明らかです。物理においても、より小さな粒子を見つけると言う試みが今日の量子論に発展し、宇宙の謎は大きく解き明かされていきました。

 

このようにあらゆる物事の原点には、その物事の理解に関する最も重要なヒントが隠されています。人間はその事を本能的に知っているのか、古今東西において哲学や科学、数学などは勿論、心理学や歴史、人類学までもが全てその分野の原点を見つける試みにより発展していきました。では、どうして我々が最小単位や原点に関心を持つのか。それは、情報は沢山あるより少ない方が、物事の理解が楽だからです。簡単な話、要するに怠惰なのです。

 

科学が台頭し始めた当時は、新たな法則を発見しようと多くの科学者たちが勤しみました。その結果、扱う現象の数だけ法則や方程式が散漫する様になり、人々はその膨大な情報量を持て余す様になりました。それに気付いたのは、古典物理学が覆った時です。サイズが大きい時と小さい時とで、同じ現象が同じ方法で説明できないことが判明したのです。

 

そこで、情報は数ではなく、相関性がいかに重要かということを人類は学びました。相関性というのは、二つ以上の情報が矛盾なく繋がることです。つまり、多くの法則が相関すると言うのは、言い換えれば「全ての法則はつながっている」と言うことであり、法則は事実上たった一つのみ存在する事が必然的に導かれます。

 

現在物理学者たちは「たった一つのルールが宇宙を支配している」と言う信条を基に研究を続け、彼らの発見はその期待を裏切る事なく着実に夢のゴールに向かって科学者たちを導いています。その結果、今では量子物理学は時代の最先端を行く科学となり、有名な賞の数々を根こそぎかっさらっていく栄誉っぷりを、遍く人類に惜しみなく披露してくれました。

 

彼らはノーベル賞を片手に、その「たった一つのルール」とやらを探して今日も元気にスイスの最先端研究室CERNに実験のアポを取りにいくのです。

 

パソコンにおいても同じことが言えます。今ではパソコンは難解な計算はもちろん、実写と変わらぬグラフィッククオリティを叩き出し、世界経済を管理し、新たな通貨まで生み出しました。こんな万能なデバイスですが、その全てを可能にするプログラムの原点は1と0だけです。あるか、ないか。それだけです。あるなら、正しいなら1、ないなら、虚なら0と言った具合に。所詮はその1と0の組み合わせですが、可能性は無限大なのです。

 

 

原因と結果

 

先ほど「人が歴史の中で始終原点を探してやまないのは、複雑な事より簡単な事のほうが人間が理解しやすいからだ」と述べました。これはつまり、「人間とは物事を理解したがる、好奇心のある生き物」と言う心理学的な前提があります。では、その原点とは何か?

 

物理の原点は「(いくつあるかはともあれ)この世を支配する法則がある」と言う話で、コンピューターの原点は「1と0」と言う話でした。この二つの話は、とある一つの共通点を浮き彫りにしてくれます。その共通点こそが「因果」なのです。人は、物事の理解を単純化し、全てを一つの軸で説明するために、因果という概念を導入したのです。

 

因果とは、原因があれば、そこに結果が伴うと言う法則、あるいはルールのことです。ルールとは、「この場合、こうする」と言う決め事です。物理学の現象で言えば、「リンゴを手放せば、落ちる」と言った具合に。パソコンの1と0も、要は「こうなら1にし、ああなら0にせよ」と言う命令であり、いずれも原因と結果がついて回ります。

 

同様にして、クリティカルシンキング、そしてクリシンマインドセットにおける最も重要な原則とは、基本の考えの中にこの因果を見つけ、全てのステップが正しい因果に則っているかどうかをひたすら追求すると言う行動一言に尽きるのです。

 

料理と言えば今や様々な種類のある充実した文化の一つですが、やってる事はどれも食材の状態を変えて合わせたり盛り付けたりするだけですし、プログラミングもやってる事は文字を打つことだけですし、画家もやってる事はキャンパスに色をつけてるに過ぎませんし、建築家もやってる事は線を引いてるのみです。どんな複雑な作業も、作業そのものはシンプルなのです。クリシンマインドセットには様々なステップがありますが、それも要はただひたすら因果をほじくり返すだけと言うシンプルなプロセスに過ぎないのです。

 

 

情報とは

 
因果とは、実態のある物体ではありません。では、なんでしょう?情報と答えた方は正解です。では情報とはなんでしょう?
 
情報とは、一言で説明しきるのは至難の技ですが、わかりやすく言えば「知らせ」であると言う定義で納得いただけるかも知れません。
 
では、知らせは何を知らせるのでしょう?禅問答のようで大変ですが、それがわかると、因果の話が理解できるようになります。
 
まず、情報には2種類あります。

 

  1. 変化を伴わない情報
  2. 変化を伴う情報
情報とは、これらの知らせの事なのです。詳しくみていきましょう。
 
 

変化を伴わない情報

 
例えば、今あなたの目の前の人が赤くていい香りのする丸いものを持っています。その人は言います、「これはリンゴというのだよ」と。あなたはその人に、その赤い球体がリンゴであるとの情報を受けました。これが変化を伴わない情報です。または、定義といます。あなたは、リンゴの定義を知らされたのです。
 
定義とは、あなたがそれをどう呼ぶかの決め事であり、リンゴと言うことでお互いそれが甘い香りのする赤い球体のことを指していると理解できればそれで目的は成就されます。そしてリンゴは滅多なことがない限り、どんな状況下でもリンゴでい続けます。青いライトの下で真っ黒に写ろうが、切られて形が変わろうが、こんがり焼けて構造が変わろうが、腐敗して香りが変わろうが、それはリンゴであり続けます。そして、リンゴがリンゴであるという情報は、何かしらの変化を伴いません。要するにビフォアーアフターがありません。だから定義とは変化しない物についての情報なのです。定義は、国語で言うと大体名詞や形容詞などでできています。
 
しかし定義とはその時の時代や文化によって変わるものです。リンゴは日本語ではリンゴですが、英語ではリンゴと呼ばずアップルと呼びますよね。なので、定義とは不変の情報ですが、普遍ではないのです。その呼び方は変われど、リンゴと言う単語の情報そのものに、何らかの変化を知らせる情報は含まれていないのです。
 
そしてその性質上、定義は証明することができません。リンゴが本当にリンゴという名前かどうかは、誰にも証明しようがない以前に、別にリンゴじゃなくてアップルでもポムでも、相手に伝われば良い訳ですから、証明する意義自体ないのです。
 
 

変化の情報

 
続いて変化の情報の例です。リンゴを持った先ほどの人は、今度はそのリンゴを手放しました。そうしたら、そのリンゴは重力に導かれ、地面へと落下しました。リンゴに、「落ちる」と言う形で変化が現れました。正しくは物理学用語で「加速度運動」と言い、物質に力が加わったことによって物質が加速しながら移動する事を指します。落ちることによって、位置も変化しました。あなたは、リンゴの状態が変化した事を知らされたのです。
 
この、「リンゴを手放すと、落ちる」と言うのが、原因と結果であることに、要するに因果であると言うことにお気づきでしょうか。因果とは、何かが変化する際のルールのことなのです。そのルールを誰が決めたかは私は存じ上げませんが、地球上のどこでリンゴを手放しても、そのリンゴは等しく重力に沿って地面へと吸い寄せられるのです。変化の情報とは、国語で言うと動詞に相当します。この情報にはビフォアーアフターがあります。
 
因果とは変化の情報ですが、定義が不変ではないのに対し、「変化しない唯一のものは変化そのものだ」ということわざにもある通り、因果自体は普遍なのです。よって地球上のどこから誰が何度リンゴを落としても、強力な向かい風などがしたから吹き上げてこない限り、何かがリンゴの行手を阻まない限り、同条件ではリンゴは常に落ちるのです。
 
従って、因果はこの普遍性故に証明することができます。実際に手放してみて落ちるかどうかを見てみればいいのですから。落ちれば証明成功です。落ちなければ落ちなかったで、その「リンゴを手放せば落ちる」という因果は間違いだということになり、同じ条件下では宇宙のどこにいってもリンゴは落ちないハズなのです。
 
因みに、地球上ではリンゴは落ちると言う事を、アイザック・ニュートンは目撃したそうです。
 
 

シンプル・イズ・ベスト

 
もちろん、地球から遠く離れた宇宙空間ではリンゴは落ちないでしょう。地球上であっても、上に向かって投げれば、まずは上に向かって移動したりもするでしょう。風船を手放せば、あるいは上昇していくかも知れません。しかし、そうやって無限に条件を増やしていって、一々結果を観測していたのでは、途方もなく時間がかかってしまいますよね。しかも全く新しい条件が新たに現れれば、その結果が分からず前に進めなくなります。そんな気の遠くなるような努力をするより、その原因と結果をもたらすルール――因果関係一つわかれば、ずっと楽でしょう。ね、ほら、因果がわかったおかげで宇宙の果てまで行ってリンゴ落としのテストする手間が省けたではないですか。
 
普遍性を持つ因果の法則は、そのシンプルさゆえに絶大な絶対性をはっきします。一度因果の「原因」の部分が発動してしまうと、もはや「結果」は、宇宙の法則がその瞬間変わらない限り揺るぎ様のない未来なのです。一度因果の歯車が始動すれば、同じ条件下であれば必ず同じ原因から同じ結果が引き起こされます。それが宇宙の法則なのです(量子スケールにおいて不確定性原理を持ち出して因果律の一定性を否定してくる方がいるかもしれませんが、少なくともニュートン力学の通用する我々の生活圏では、因果律は有効だと言えるでしょう)
 
仮に宇宙の法則が変わったとしても、変わるのは結果だけで、原因が結果をもたらすと言う因果の法則そのものが変わらない限り、因果の法則は無敵なのです。手放され落ちる運命にあるリンゴは、どうあがいても干渉なしには落ちると言う結果から逃れることはできないのです。
 
常温での磁石をどんなに切り離してもそれぞれの端がS極とN極に別れてしまうように、因果の「因」と「果」も切っても切り離せない強力な関係にあるのです。
 
そしてここからが面白いところ。人間の、そして生物全般の生命活動も、全てこの因果に則ってプログラムされていると言う話です。
 
 

生命と因果、そして謎の変化Z

 
我々も宇宙を支配する法則と同じ条件下で暮らしている身として、その法則がもたらす因果を無視することはできません。リンゴが手から落ちるのは構わないかも知れませんが、自分が谷底から落ちるのは嫌でしょう。ここでも、リンゴの尊い犠牲が我々に一つ変化の情報(すなわち因果)を与えてくれました。わざわざあなたが谷底から落ちて無事かどうかをテストする手間がまた一つ省けました。
 
さて、リンゴや谷底の例に限らず、因果とは変化だということは、前述の通りです。ではどうして人間はこの因果を知りたいのでしょう。それは、因果がわかれば、未来の変化が事前に予測できるからです。では我々はどうして未来の変化を予測したいのでしょう?
 
それは、未来にはとある「変化Z」があり、全ての生命はその変化Zが身に起こることを避けたいからです。
 
もうお分かりですね、そう、その変化Zとは、生命が最後に体験する変化――「死」のことです。生命が「因果に則ってプログラミングされている」というのは要するに、「死を避けるようにプログラミングされている」ということです。
 
しかし、今までの生態系では、いまだ生物は不死身を手に入れるに至っていません。なのでどんなに死を避けても、それはいずれ必ず訪れます。そこで、生命は子孫を残すという苦肉の策に辿り着きました。これにより、死のない完全な体にたどり着くまで、種を存続させる代替案としての継続法が普及しました。中には、存続を優先させるあまり個体の死を促す進化を遂げる種まで現れました。口のない昆虫カゲロウなどがそれです。カゲロウは、交尾するためだけに特化しており、そのため食事の機能を犠牲にする様な進化をとげ、今日まで生き残ってるのです、しかし、全ては生命が死を克服するための進化の流れの一貫に変わりはありません。
 
このように、文字通り死んでも死にきれないのが繁殖する生命の心意気です。生命は、未来に持ち越してまでも死ぬまいとするほど、強く死を避ける傾向にあるということです。
 
さて、カゲロウや昆虫のように個体が数匹数十匹死滅しようがまだ兄弟が何百何千といる種と違い、我々人間や大型動物は、兄弟が少なく1個体の死が既に種の存続問題につながります。そうなると、カゲロウのように種のため捧げよう我が命、などと悠長な事をいってる場合ではありません。この場合は、個の存続が種の存続と大きく結びつきます。単純計算で、一度に少数の個体しか産み落とせない高度な動物は、個数が少ないため安易に個体を犠牲にできないのです。
 
そこで、個体の存続の可能性を最大限にするために、「学び」と言う能力を彼らは得ました。
 
何を学ぶのか?そう、因果を学ぶのです。落ちると痛い、赤いものを食べると苦しい、など。因果がわかれば、自分を死と言う結果に至らしめる条件がわかります。それさえわかればあとはそれを避けるのみです。たまに、どっちを選んでも地獄行きと言う場面がありますが、それを計算に入れてもなお「学び」が莫大な成功を修めたと言う事実は、歴史的にみて、学びが一番得意な種である我々人類がいまだ繁栄していると言う結果をみれば一目瞭然でしょう。生物は学びを得たことでより確実に死という変化に遭遇しにくくなったのです。
 
このように、因果は物理だけの話ではなく、生命とも密接な関わりがあるのです。では、生命は因果を知ることで、どのように彼らの生存率を高めたのでしょう?
 
その話は、後編にてご説明します。
 
それでは、次回第16講「3つの因果」でお会いする時まで、しばしの別れ!