皆さんこんにちは。

 

 

 

 

今日は最近流行病の新型コロナウイルスに関する興味深い心理ついてお話ししましょう。

 

 

 

去年の終わり頃に台頭し、今なお世界規模で注目されている新型コロナウイルスに関する諸々の出来事は、3月頃から欧州各国では強制的なロックダウンや、日本での外出自粛や非常事態宣言など、人々の生活リズムや経済活動の根幹を揺るがす大な変動を我々に経験させてきました。

 

アメリカが中国を抜いて世界トップの感染者数に上り詰めたのも3月の事。全世界の感染者総数が6月末に1千万人を超えた今や、かつてのトップランナー中国はもはや雑魚、その過去の栄光の面影すら残さないほど、続々と勢いをつけてきた後続諸国にあっさりと感染者数を抜かれてしまい、今や上位20位にすらその名前を見ることはできません。その間もアメリカはトップを走り続け、感染者総数の約1/4を占めています。

 

 

 

そんな世界的イベントとなったコロナウイルスも、注目を浴びるようになりもう半年以上がが経過してきました。しかし、今でもそのパニックは消えておらず、特に第1波が旺盛な初期は、各国が緊急事態宣言を発令するとともに、世界中のマスクはもちろん、各国のスーパーではトイレットペーパーさえも謎の在庫不足に陥るなど様々な摩訶不思議な現象が目撃されたことは、皆さんも記憶に新しいのではないでしょうか。

 

などと言っている間に、感染者数の増加が近日再び加速してきていることがまた脚光を浴びています。今日本では第2波が囁かれており、今後も感染者数が増加すれば、かつてのパニックは果たして蘇るのか。またたくさんのデマが流れ、スーパーからトイレットペーパーなどが消滅してしまうのでしょうか。

 

 

 

今回は、そんな今だからこそ人間の非常事態時におけるパニックに起因する衝動買いに潜む心のを白日の元に晒し、剥き出しにして差し上げようかと思います。

 

 

 

 

 

非常事態時におけるパニックの心理とは

 
 

パニック現象

 

忽然とスーパーから姿を晦ましたトイレットペーパー。その理由は、品薄になるのを恐れた迷える市民たちの買い占めによるものだと言うことは、ご周知の通りです。彼らは、

 

「ロックダウンになったらもう買い物にもいけないかもしれない。買い物に行けてもどこも物資が欠品しているかもしれない。なら、今のうちに買えるだけ買っておかないと」

 

と胸に不安を抱き、一斉に生活必需品をはじめとした様々な物資を買い漁ります。その結果、一時的に需要が供給を著しく上回り、在庫が消えて無くなるのです。

 

 

彼らがこれらの不安にかられるのには、情報不足やデマなどの過度な情報が主な原因となっています。特にデマに関しては、平常時には耳をかさないような明らかに胡散臭い内容でも、藁をもすがる思いでいっぱいの緊急時には、コロッと騙されてしまうのです。そう言ったデマに流されやすい人が、衝動買いをする傾向にあると言うわけです。これがパニックの力なのです。

 

 

しかし、この記事ではデマに流されやすい人についての心理や、パニックになった後の行動についての話を扱うわけではありません。今回注目したいのは、緊急事態が人々をパニックに追いやる仕組みそのものです。これがわかると、パニックにかられ、声を高らかに喚き叫ぶあなたの身の回りの市民たちを見る目が、きっと変わることでしょう。

 

 

ではまず、パニックを理解するために、それと真逆の状態「平時」について、まず説明しておきましょう。それを理解する上で重要となってくるのが「暇」と言う言葉です。

 

 

ヒマ状態とは

 

ヒマとは、何を言うのか。広義 には、「することが何もない状態」のことをヒマと呼びます。ここでもその意味は同じです。ですが、「することが何もない」と言うのは、どう言うことでしょう。そこに秘密が隠されています。

 

 

例えばあなたは、気を抜くと死んでしまう星の元に生まれて来たとしましょう。ならば、常に気を引き締めていなければいけませんよね。そうなるとあなたは「常に何かすることがある」と言う状態です。つまりすることがある状態なのでヒマではありません。

 

 

幸いな事に、我々が気を抜いた瞬間本当にその生命に突如として終止符が打たれる事はありませんが、実はこれは脳の自律神経が「気を引き締めている」からだったりするのです。

 

 

実際、我々生物は常に細胞内でエネルギーを生み出さなけでば死んでしまいます。そのためには、十分な量の食糧を適時適切摂取する必要があります。加えて、内外的危機から身体を守る必要もありますね。ゆえに、体内は常に栄養からエネルギーを生み出し続け、心臓や脈は血液を身体中に張り巡らされた血管を通して隅々まで運び、肝臓で毒素を分解し、肺で酸素と二酸化炭素の交換を行い、脳でそれらを制御するのです。したがって、生きている時点で実質ヒマではないのです。

 

 

 

平時とは「思考のヒマ」

 

 

これに加え思考もまた、他の身体機能と同様、生存確率をあげるために人類に備わった機能の一つなのです。「思考」とは元はと言えば「推測、経験や観測などを頼りに、これから訪れるであろう危機を可能最大限回避し生存率を上げる試み」なのです。なので、危機感を覚えれば覚える程脳は学習し、思考を張り巡らせることに慣れていくのです。

 

 

ここで、その逆である思考のヒマについてみてみましょう。思考のヒマは生命活動や物理的動作を伴わないため、客観的な判断が極めて難しく、主に本人の主観的な評価に依存します。つまり、思考的にヒマかどうか感じるのは本人次第ということです。

 

 

 この、思考がヒマな状態のことを我々は「退屈」と呼びます。要するに、ヒマには体がヒマな状態と頭がヒマな状態の2通りがあり、頭がヒマな時に人は退屈すると言う事です。

 

 

我々の感覚では、戦争や大災害などを緊急事態と呼び、それ以外の何もない平和な期間を平時と呼びます。この平時こそ、生き残るために思考を凝らす必要のない期間、要するに思考がヒマをしている期間なのです。

 

 

 

退屈は人を殺す?!

 
 
では、この退屈が一体どうしたというのでしょう。なんと、人は退屈によって生への執着が薄れてしまうのです。欧米に「退屈は人を殺す」という慣用句があるほど、退屈というのが人類の敵だということは古来より知られており、1980年に7500人のロンドンの労働階級市民を対象に行われた観察実験でも、職場で退屈している層の方が若くして命を落とす傾向が高かったことが明らかになったそうです(参照元)。皆さんも退屈を感じた時、生きる気力を失ったりする経験があったりするのでは無いでしょうか。

 

 

歴史を見ると、平時にヒマを持て余した人類が芸術を発達させ文化に花を咲かせているのが伺えます。退屈を凌ぐために緊急時では出来なかったことに挑戦していったためです。人は、常に何かしら考えていないと退屈でたまらないと言うことなのです。だから人はいつでも刺激を求めて様々なことに挑戦しているのです。

 

 

 

死が人に生き甲斐を与える?!!

 

 

では、どうして我々は思考がヒマだと退屈だと感じてしまい、刺激を求めるようになるのでしょう?

 

 

退屈というのは、我々が体験する事をどう感じるかにかかっています。ですので、いかに生命活動に勤しもうと、それが実感できなければ暇なのです。言い方を変えると、退屈な人は生きている実感が湧いていないと言う人なのです。

 

 

なぜなら、人は死を目前に感じている時こそ、生を感じるのです。いつも健康な時はなんとも思っていないのに、重い病気や怪我が治った瞬間、その健康が俄然有り難く感じるのがその例です。なので、死の淵に面していないと、せっかくの生存術のための脳も宝の持ち腐れとなり、感覚が鈍り、退屈するのです。車はあるのに行き先が色々近場すぎて使う必要がないため、運転する機会が中々無い時のあの手持ち無沙汰感なんかが正に同じ心境です。

 

 

遥か有史以前より、人類は危険から身を守るために試行錯誤し、経験と知恵を積み重ね、結果長い年月をかけて天敵から自然現象に至るところまで幅広く対処対応する事が出来るようになりました。それでもなお、ごく最近まで人類は伝染病や飢餓、戦争などいついのちを落とすかもしれない過酷な環境で必死に生きながらえて来ました。

 

 

そんな当時と比較したら、現在の人間社会の生存環境は野生や過去の環境に比べて頭一つ抜けてヌルゲーと化したいるため、やり込み要素が見当たらなく、プレイしてもつまらないゲームとなんら変わりません、だから現代人は退屈なのです。

 

 

もちろん、現在も人類の生存問題に終止符が打たれたわけではなく、コロナのように依然として伝染病にかかり命を落とす人や、テロや犯罪に巻き込まれて命を落とす人は一定数いることは確かです。ただ、中世に生まれ、何不自由なく一生を謳歌し、運よく長生きした貴族一人を指して「中世はヌルゲー」と言うことに無理があるように、現代に置いて、一時的に出現した流行病だけを見て「現代は無理ゲー」と言うのもまた、的外れもいいところというものです。統計学的に見て現代の方が中世より遥かに過ごしやすくなっているというのはもはや疑いようの余地もありません。それと比例する形で、人類も思考のヒマを持て余して退屈しているというのもまた、揺るぎない事実なのです。その結果ごらんなさい、現在においてサービス業を凌ぐ勢いで急成長している市場が娯楽であり、YouTubeはそのいい例です。平成初期には存在してすらいなかった職業ユーチューバーが、令和初期の今ではなりたい職業のトップの座でガイナ立ちしているでは無いですか。

 

 

皮肉なものですよね、散々探し求めていた安全の境地にたどり着いた途端に今度は退屈が貴方を暇殺しにやってくるとは。

 

 

 

新弾エキスパンション:コロナ

 

 

さて、我慢強くここまで読んでくださった皆さんに、退屈の話と新型コロナの話と一体どう関係があるのかをここでようやく説明しましょう。ここまでの話で察しの良い方はもう何が言いたいのかお分かりかと思いますが、この新型コロナの波こそ、忘れ去られた生の感覚を呼び起こすために飽和しきったこの世界に降り立った千載一遇のチャンスだったのです。全クリしてただマップをさまよい日課を淡々とこなしていたヌルゲーに、待望の追加シナリオがエキスパンション拡張弾として登場したが如く、人々はコロナによって思う存分脳を活性化し、刺激のシャワーを堪能しました。

 

 

ご存知の通り、新型コロナウィルスは感染力の非常に強いウィルスとして知られ、それほど高くない致死率も感染者を増やす事でその絶対数を増やす事に成功しています。毎日のように更新される感染者数や死者数は今でも人々に恐怖を植え付けています。

 

 

コロナがこれほど大事になったのは、単にウィルスの殺傷能力に由来するものではないのですが、情報高速化の社会に生きる現代人が全て正確な情報を把握できているわけではなく、冒頭でも述べたデマや勘違いなどが彼らのバイアスを活性化し恐怖心を煽っていったため、情報弱者達はたちまち恐怖に駆られたパニックに陥ったのも大きな要因だからです。

 

 

恐怖に駆られた人々がとった行動は、もう皆さんもご存知の通り、トイレットペーパーの買占めを代表とする、一連の買占め騒動です。最近の研究でも、人はパニックの時日用品を買い漁ると気が落ち着くと言うデータが得られたようなので、これが即ち、彼らのパニックを鎮めるための処置だったと考えて間違い無いようです。もちろん、買い占めだけが怪奇現象の全てではありませんが、特に社会的に大々的に影響を及ぼしたトイレットペーパーの謎の消失は、他のパニック現象と比較しても異彩を放っていることは誰の目にも明らかなのでは無いでしょうか。

 

 

こうして彼らは再び未知の要因によって生命の危機に晒され、忘れていたかつての感覚を呼び戻したのです。彼らがデマに流されるのは、単に情報弱者と言うだけだからなのではありません。彼らは、デマを信じる方が結果的により多くの刺激を得られ、生きている実感を得ることが出来ると本能で知っているから、あえてデマに乗っていると言うのもまた、真実の一角なのでは無いでしょうか。

 

 

 

結論

 

 

我々は誰しも、生き残りたいと願う反面、生命維持の戦いにおいて感じることのできる生の実感「スリル」を感じたいと欲する生き物です。これは深層心理に働く現象なので、本人にその自覚は無いにせよ、結果的にコロナパニックはその欲を満たすための恰好の機会を日々に与えてくれました。

 

 

今まで買い物に行くのが怠かったのが、コロナが来た途端トイレットペーパーを求めて隣町まで全速力でかけて行って、バッグいっぱいの商品を担いで帰って行ったにもかかわらず、その身体は疲れを知らず、眼はまだ元気よく回りを見回している。こんなに生き生きとした気分はいつぶりだろう?

 

 

我々はよくデマを信じてパニックを起こす人を横目に見て「情弱」と一蹴し非難します。確かにパニックは秩序を乱し、社会の回転の効率を悪くします。パニックを避けるために事実を隠蔽するなどと言う工作も国家レベルで余裕で歴史上何度も行われたりもしました。ただ、パニックを規制すると言うのは言い換えれば、人の生き甲斐を奪うことでもあるのです。

 

 

それを知っていながらあえてパニックを忌み嫌うのなら、それは自由な選択と言えるでしょう。全ての情報が出揃った上で決断を下しているからです。しかし、このパニックの心理を知らないままパニック勢を非難すると言うのは、第2次世界大戦でイギリスがアラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナを渡す約束をして、そのせいで領土がかぶる問題を抱えたため両国が仲違いしてしまったと言う背景を知らずに「パレスチナを攻撃するイスラエルはけしからん。イスラエルさえ改心して欲をなくせば全て丸く収まる」と言っているのと同じ具合に目隠しされた状態での判断であり、即ち自由な選択では無いのです。

 

 

いずれにしろ、パニック状態の人に落ち着けというのも無理な話で、人は非常時には知っている事ではなく、習慣の通りに行動する生き物です。デマに流されない情報強者になるためには、情報の正しい精査の仕方を身につけ、それを常日頃より習慣にしていくほかありません。

 

 

 

最後に

 

 

今やコロナは社会のあり方を後戻り不可能なほどまでに変えたとまで言われています。テレワークやリモートワークなどがその例です。人類はこれまでも危機を乗り越えるたびに成長、進歩していきました。今回のコロナもまた、世界規模の一大事であるが故に、人類にさらなる文化の加速と成長を促すのではいでしょうか。それは今後の人類の選択が答えを明らかにしてくれるでしょう。一体コロナが過ぎ去った世界は、どんな世界となっているのでしょうね。

 

 

 

それでは、また次の記事でお会いしましょう。それまで皆さんお元気で